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Game Journal誌の傑作ゲーム「信長最大の危機」(以下、本作)をソロプレイしてみた。このゲームは、1570年(元亀元年)の金ヶ崎からの撤退戦から始まる織田信長による平定戦を1Turn=半年、1ユニット=1500~2000名、ポイントトウポイントシステムで再現する。
1996年にGame Journal誌の付録として発表された本作は、21世紀に入って第2版として再販され、さらに米MMP社からは英語版が発売されている。余談だが、本作は2010年に米国でチャールズ・ロバーツ賞を受賞している。
今回は久しぶりに本作の魅力に触れるべく、VASSALを使ったソロプレイにチャレンジしてみた。今回上級ゲームでプレイしたが、選択ルールは採用しなかった。

Turn00a


1Turn(元亀元年)

織田信長本作の序盤はほぼ定石が決まっている。最初の行軍チットが「織田信長」に決まっているので、そのチットを使って金ヶ崎の信長公を馬廻りと共に京に逃がすのだ。行軍判定のダイスが最悪の1であったも信長公だけは逃げ切れる筈。
今回行軍ダイスは織田方にとって最良の6であった。そこで信長公は麾下兵力の約半数である1万6千を率いて金ヶ崎を撤退。返す刀で交通の要域、近江佐和山城を攻める。後日石田三成が城主となった佐和山城は、当時は北近江の浅井が支配していた。浅井の守備兵約4000に対し、約4倍の織田軍は攻めあぐみ、佐和山を落とすには至らず。

しかも、その直後に「終了」チットを引いたので、いきなりTurn終了である。

Turn01a


2Turn(元亀元年)

滝川一益最初に引いたのは「織田信長」チットである。佐和山に対する調略戦を仕掛けた所、2個の守備隊が両方とも織田方に寝返るという珍事が起こった(確率1/9)。織田方にとっては麾下の兵力が増えるだけでなく、強敵浅井長政が弱体化したという点で朗報だった。こうして佐和山は労せずして織田方が支配し、岐阜から京への連絡線が著しく短縮された。

織田側の反撃第二弾は南近江の六角攻めを行う。滝川一益麾下の1個軍団(約1万5千)が六角氏の本拠である南近江箕作城を攻める。しかし六角氏の抵抗も激しく、このTurnに箕作城が落ちることはなかった。

Turn02a


その次に引いたのが「反織田中小」。四国阿波に本拠を持つ三好三人衆が約1万2千の兵を率いて摂津茨木城に攻め込んだ。茨木を守るは荒木村重率いる約4千。数では敵わない荒木勢は、茨木城に籠城の構えである。

Turn02b


3Turn(元亀二年)

柴田勝家最初に引いたのは「浅井・朝倉」。朝倉義景が約1万5千を率いて金ヶ崎に現れた。金ヶ崎には織田軍の殿約4千が城に籠っていた。朝倉勢は激しく攻め立てたが、落城には至らず。

続いて「織田信長」を引く。信長公自ら率いる主力部隊1万5千が摂津茨木へ出陣。三好勢と戦う。兵力で勝る織田勢は三好勢を圧倒。三好三人衆と言われた三好氏の重臣達は。この「摂津表の戦い」にて悉く討死した。

伊勢方面では、伊勢長島の一向一揆勢に対して攻勢を仕掛ける。柴田勝家麾下の約8千が長島の輪中を囲んだが、強襲を仕掛けるには兵力不足であったので睨み合いになる。

Turn03a


「反織田中小」を引いた後、最後に引いたのが「本願寺」である。雑賀孫一率いる雑賀勢と本願寺の合同部隊が信貴山城の松永弾正久秀を攻めた。松永弾正は兵力で劣るため信貴山城に籠城。援軍を待つ。

Turn03b


6Turn(元亀三年)

武田信玄2Turnほど大きな動きがなかった後(「終了」チットを引くのが早かった)、遂に武田が動き出した。そしてまさに最初に引いたチットが「武田信玄」である。武田勢は部隊を3つに分けて、主力は武田信玄自ら率いて駿河から徳川領の遠江に侵攻。その兵力は約2万。さらに山県昌景麾下の約4千が伊那路を進み、馬場信春麾下の約4千が木曽路を進む。早くも武田信玄が掛川城を攻撃し、それを陥落させた。

「反織田中小」を引いた後、「織田信長」を引く。まず武田の脅威に直面した徳川勢は、主力の8千を浜松城下に集結させる。しかし2万を誇る武田勢に比べると余りに兵力不足である。
その他には伊勢長島に対する本格攻撃を開始した。しかし長島の一揆勢は激しく抵抗。織田方は大損害を被ってしまう。

次に引いたのが「本願寺」。雑賀と本願寺の連合軍が信貴山城を猛攻。遂にこれを陥落せしめた。信貴山城で最後まで戦った松永久秀は、平蜘蛛の茶釜と共に爆死した。

次に引いたのが「武田」である。武田信玄は麾下の兵力から1万6千の兵を率いて徳川の本拠である浜松城を襲う。兵力に劣る徳川勢は野外戦を避けて浜松城に籠城する。武田勢は城に対して猛攻を仕掛けるが、徳川側の抵抗は激しく、武田方も攻めあぐねた。

Turn06a


最後に引いたのが「織田」である。浜松城では徳川勢が奮戦しているが、このまま放置すれば兵力に勝る武田勢がやがて浜松城を攻略するのは火を見るより明らか。速やかに援軍を浜松城下に送り込まなければならない。信長公麾下の約1.5万は京を発って伊勢亀山まで進出。東海道を東に向かう構えを見せる。
その他、滝川一益は遂に箕作城を攻略し、六角氏を滅亡させた。実に2年以上に及ぶ攻城戦が漸く終わりを迎えたのである。
伊勢長島では、柴田勝家麾下の織田軍は、丹波長秀麾下8千の増援を得て長島城に攻めかかる。長島を守る一揆勢は激しく戦い、織田側はまたもや多大な損害を被ったが、一揆勢も少しずつ兵力をすり減らしていく。

Turn06b


7Turn(天正元年)

徳川家康最初に引いたのが「武田」。武田勢は増援を得て再び1万6千の兵力で浜松城を攻める。しかし浜松城の守りは鉄壁であり、武田勢は数千の兵を失った。

次に引いたのが「織田」である。浜松攻めで弱体化した武田信玄に対する反撃のチャンスと見た織田側は、佐久間信盛麾下の1万2千を浜松に送り込んだ。さらに徳川の増援部隊6千も浜松にむかう。浜松で籠城していた徳川勢の生き残り約6千も増援部隊を得て野外決戦に出る。織田・徳川連合軍計2万4千。対する武田勢は先の浜松攻めで稼働兵力が約1万まで減少していた。さらに徳川家康は信長公より「方面軍大将」の地位を得て、能力的に武田信玄と互角になっていた。
武田信玄は形成悪しと見て撤退を宣言。しかし圧倒的な織田・徳川連合軍の追撃を受けて武田勢は壊滅。信玄公も激戦の中で遂に討死してしまう。

Turn07a


いきなり駿河戦線が壊滅した武田勢は、いきなり滅亡の危機を迎えていた。慌てて山県昌景が甲府に帰還し、本城の守りを固める。

9Turn(天正二年)

足利義昭北陸戦線が動いた。朝倉勢が金ヶ崎城を猛攻。遂にこれを陥落せしめた。これで浅井、朝倉間の連絡線が回復した。
京では武田出陣の報に驚喜した足利義昭が兵を率いて挙兵。したものの瞬く間に信長に制圧され、足利義昭は京を追放された。ここに室町幕府は終焉を迎えたのである。

Turn09a


伊勢方面では柴田勝家が遂に長島の一向一揆を完全制圧した。また対武田戦線では徳川家康が駿河へ進撃。掛川から駿府を通って久能山までを支配下に置いた。これで駿府一帯は織田・徳川勢の支配する所となったのである。

畿内では本願寺勢が再び策動を開始していた。信貴山を制圧した雑賀孫一麾下の雑賀勢と本願寺勢の連合軍が筒井順慶の守る大和郡山城を急襲したのである。筒井順慶は城に籠って抵抗を続けている。

つづく