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P-40といえば、P-39と並んで「駄作機」という印象の強い機体です。しかしP-40は、P-39、F4Fと共に太平洋戦争初期における連合軍にとって苦しい時期を支えた機材であり、その貢献度は戦争後半に登場してきた新鋭機に優るとも劣りません。
最近では、F4Fが「零戦と互角以上に戦った機材」として評価を高めつつあり、P-39は太平洋戦線ではなく独ソ戦での活躍が評価されています。そんな中、P-40だけが未だに「駄作機」の印象が残っていますが、果たしてP-40が「駄作機」だったのか。
今回はそのあたりを考察してみました。

性能

まず下の表とグラフを見て下さい。

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これはP-40の各モデルとライバル機を比較したものです。最初に初期型であるP-40Cについて見てみましょう。
まず同じ連合軍であるF4F-4と比較した場合、非常に似通った値を示している点が興味深いです。細かく見た場合、速度、馬力荷重ともにF4F-4が僅かですが上回っています。フィリピンでP-40C/Eが零戦に惨敗を喫し、一方空母搭載のF4F-3/4が零戦相手に善戦したのは、性能面での違いが要因にあったのかもしれません。ただ上昇性能だけはF4F-4を上回っています。F4F-4はガダルカナル戦で日本の1式陸攻による中高高度爆撃に苦戦した様が学研の「一式陸上攻撃機」に記されていましたが、P-40Cならば1式陸攻に対して有効な迎撃戦を展開できた可能性があります。

本来のライバルである枢軸軍機と比較した場合、零戦相手には馬力荷重、翼面荷重共に大きく劣っています。速度性能だけは零戦を僅かに凌駕していますが、上昇性能で劣っています。こうして見るとP-40Cに勝ち目はなさそうに思えるのですが、意外や意外、P-40は実は旋回性能がかなり良かったりします。というのもP-40は低空高速域での旋回性能はWW2に登場した単葉戦闘機の中ではトップクラスでした。P-40が零戦や隼といった日本機に苦戦した理由として、低速域での旋回性能がこれらの機材に比べて敵わなかったことがありますが、それよりも上昇性能で日本機に劣っていたため、常に劣位戦を強いられたことが原因だったのかもしれません。

相手がBf-109Fとした場合、今度は翼面荷重でBf-109を凌駕しますが、馬力荷重や速度性能で完全に水を開けられています。これだけ速度性能に差があると、最早対等に戦うことは不可能でしょう。P-40は多くの場合、Bf-109の速度性能に翻弄され、唯一の勝機は機体の頑丈さを生かした一撃離脱戦法しかなさそうです。

次に後期型であるP-40Kを見てみましょう。
まず米海軍のF4F-4を比較した場合、翼面荷重ではF4F-4に劣っていますが、馬力荷重で大きく優り、速度性能でも上回っています。P-40KクラスになるとF4F-4程度であれば、速度性能を利用して優位に戦いを進めることができそうです。ただ気になるのは上昇性能の悪さです。初期型であるP-40Cよりも劣っているというのはどういう訳でしょうか。

零戦21型との比較においては、翼面荷重や上昇性能では敵わないものの、速度性能では凌駕し、馬力荷重もかなり近づいています。これに持ち前の頑丈さと火力をミックスした場合、零戦相手でもかなり善戦できたのではないでしょうか。Bf-109Fとの比較においては、相変わらず速度性能では敵いません。コチラの場合も火力と防弾性そして機体の頑丈さを生かした戦術が中心になりそうです。

戦歴

フライングタイガース

中国戦線におけるフライングタイガースの活躍は、その指揮官クレア、リー、シェンノートの名前と共に有名です。同方面で対決した日本機は主にキ27、キ43といった日本陸軍の戦闘機やキ21、キ48といった爆撃機です。軽快な日本戦闘機と比較した場合、P-40の強みは良好な火力、適切な防弾装備、水平及び降下時における速度面の優越、そしてロール性能の優越です。
彼ら自身の報告によれば、撃墜286機に対して損失19機。実際の戦果は左記の1/3~1/2程度である100機前後といった所が妥当な線でしょうが、それでも日本機相手に善戦したことは間違いありません。

フィリピン、蘭印戦

日米開戦当初、米軍はフィリピンに4個戦闘機中隊計72機のP-40C/Eを配備していました。彼らは開戦劈頭の日本機による奇襲攻撃により大損害を被りましたが、それでも一部は果敢な迎撃戦を展開しました。開戦初日の戦いでは、P-40は計9機が被撃墜又は不時着、零戦は7機を失いました。P-40の損害は一部に燃料切れが含まれており、零戦も地上砲火によるものが含まれているため、両者の実際の戦果、損害はハッキリしません。日本側は撃墜確実15、撃墜不確実7を記録、米軍は10機前後の撃墜を報じています。
その後蘭印に後退したP-40部隊は、第17(臨時)追撃飛行隊を編成。蘭印を巡る攻防戦で損害17機と引き換えに日本機49機の撃墜を記録しました。実際の戦果はこの数分の一ですが、日本側が記録した戦果と連合軍側のそれのあまりの違いに驚かされます。

南西太平洋方面

ニューギニア及びオーストラリア北部におけるP-40の活躍は、第49戦闘グループをなしに語ることはできないでしょう。フィリピン、ジャワから撤退してきた部隊が中心になって再編成された第49戦闘グループは、1942年3月からはオーストラリア北東部のダーウィンにて活動を開始しました。当初は身軽な日本機相手に苦戦を強いられましたが、次第に自機の特徴を生かした戦法を身につけていきました。それにつれて戦果:損害比は次第に向上していき、最終的には第49戦闘グループのP-40による撃墜数は318機に達しました。
計14機(うちP-40で10機)の撃墜を達成し、第49戦闘機グループのトップエースとなったロバート・デヘブンは、以下のようにP-40の性能を高く評価しています。

パイロットが賢明であれば、P-40は大変有能な機体であった。多くの点においてP-40はP-38を上回っていた。実際何人かのパイロットはP-40からP-38への機種転換を行わなかった。私が生き残ることができたことや任務を達成できたことは、いずれもP-40のおかげである。P-40の真の欠陥は航続距離の欠如である。我々が日本軍を押し返すにつれて、P-40のパイロット達はゆっくりと戦争の圏外に取り残されていった。そして私がP-38に移行した時、私はその理由としてP-40が劣った戦闘機だからではなく、P-38ならば敵地まで飛んでいけるからだと知っていた。私は戦闘機パイロットであり、それが私がなすべきことだったからだ。

先にも記した通り、P-40は高速域での旋回性能で日本機よりも優っていました。そこで彼らは常に高速域で日本機の戦おうとしました。いわゆる「低速ヨーヨー戦法」です。F4Fの場合は単機性能で零戦に劣っている分をチームワークで補いましたが、P-40の場合は機体の特性を生かすことによって1対1でも零戦相手に互角以上に渡り合えるようになったのです。


ソロモン方面

意外と知られていないのですが、P-40がガダルカナルに進出したのは1943年に入ってからでした。米陸軍第18戦闘グループがガダルカナルに移動したのが1943年初頭のことであり、その後ニュージーランド空軍(RNZAF)のキティーホークが同年4月にガダルカナル島へ進出しました。同方面におけるP-40の活躍は判然としませんが、例えば米陸軍の第44戦闘中隊は、凡そ半年の間に損失3機に対して撃墜57機を記録しました。日本側の印象はとにかくとして、同方面でのP-40は「かなり活躍した」と評価されているようです。

地中海戦線

英空軍が北アフリカ戦線に「キティーホーク」(P-40の英国側呼称)を投入したのは1941年初頭でした。当時、同方面の主力機だった「ハリケーン」戦闘機に比べると、「キティホーク」はあらゆる面で優れていると見なされていました。また枢軸軍機と比べた場合も、Bf-109相手の場合は高高度性能では劣るものの低空性能では優っているため必ずしも不利とはいえず、フィアットG-50やマッキC200といったイタリア機よりも全般的に優っていました。ただ新型のBf-109FやマッキC202に比べると見劣りする面が多かったようです。
地中海戦域におけるP-40の活躍は全般に「優良」と評して良いものでした。例えば英連邦軍の第239ウィングは、1941年6月以降の2年間でP-40による撃墜383機を記録し、損害は100機でした。また後に地中海戦域に登場した米陸軍の場合も、例えば第325戦闘グループは1943年8月から10月にかけてBf-109 95機を含む133機の撃墜を記録し、損失は僅かに17機でした。
無論戦場における戦果報告は過大になるのが常であり、上記の記録を鵜呑みにすることはできません。しかし少なくともP-40が地中海戦線で「相応の」活躍をしていたことは確かです。