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先日、大阪のMiddle Earthにお邪魔した際、主題のゲームをプレイしました。対戦相手はtakobaさん。ダイス判定の結果、私が東軍、takobaさんが西軍を担当することになりました。
以下はその記録です。

「戦略級関ヶ原」とは、2002年3月(ひえー、もう8年も前だよー)にGame Journal誌上で発表されたシミュレーションゲームです。タイトルの通りテーマは関ヶ原の合戦。しかし関ヶ原盆地における対決そのものを描いたゲームではなく、上杉征伐や小山評定、丹波田辺城攻防戦等、全国規模で戦われた関ヶ原戦役を描く作品になっています。1ターンは実際の数日、1ユニットは1500~3000名の兵員を示します。

注:私が座った位置の関係上、写真の南北が全て逆になっています。ご注意下さい。

リプレイ

1.福島突出

東軍で最初に動いたのは福島正則(1-3)("野戦修正-戦意"以下同じ)率いる8戦力であった。福島隊は東海道を長躯西進。西軍側の戦備が整わない間に大垣城を強襲。これを落城せしめた。意気上がる東軍。一方の西軍は越後の上杉勢が上杉景勝(3-2)自らが兵4戦力を率いて越後方面へ出撃。溝口秀勝(1-1)守る新発田城を猛攻してこれを陥落せしめた。

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2.西軍始動

初動において東軍に遅れを取った西軍であったが、ここに来てようやく動き始めた。宇喜多秀家(2-2)、小早川秀秋(1-1)、鍋島勝茂(1-1)ら諸将が率いる計22戦力の西軍大部隊が大阪城を進発。鳥居元忠(1-2)が守る伏見城を強襲した。鳥居元忠はもとより奮戦し、西軍に出血を強いはしたが、衆寡敵せず。遂に切腹し果てた。
また石田三成(1-2)率いる7戦力の西軍部隊は伊賀上野城に進攻。この地を守る東軍筒井勢を蹴散らし、上野城に入城していた。

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3.上杉景勝危機一髪

越後戦線では新発田城を落として意気上がる上杉勢が、日本海沿いを北上。本庄城に攻め上がっていった。しかしそれは東軍の狙い目でもあった。小山から上越道沿いに北上してきた東軍浅野幸長(1-2)は、春日山地区で同じく東軍の堀秀治(1-1)と合流。計6戦力で上杉景勝の背後である新発田城に攻め込んだ。新発田城を守る上杉勢守備隊は奮戦し、浅野勢の入城を阻止し続けていたが、新発田城からの連絡線を断たれた上杉景勝本隊は、連絡線遮断の危機を迎えた。

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4.決戦前夜

そのころ畿内戦線では東西両軍が激しい動きを見せていた。まず西軍だが、敦賀を守る西軍大谷吉継(3-3)が同じ西軍小野木公郷(1-1)と共同で丹後田辺城に襲いかかった。田辺城を守る細川幽斎(1-*)は奮戦するも衆寡敵せず玉砕。田辺城は西軍の手に落ちた。また西軍石田三成率いる7戦力は上野から伊勢の安濃津城に進攻。激戦の末これを落としていた。鍋島、長宗我部の各隊は桑名城、宇喜多秀家隊は佐和山城に進出して東軍の出方を待つ。
対する東軍は黒田長政(1-3)率いる8戦力が清洲城に到着したのに続き、池田輝政(1-3)率いる8戦力も続いて清洲に到着した。池田隊はそのまま犬山城に進攻し、一撃の元にこれを奪取。さらに岐阜城にも攻め上ったが、こちらは岐阜城を守る織田秀信(1-1)の奮戦によって苦戦を強いられていた。

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5.決戦

東軍が動いた。清洲から黒田長政隊8戦力、大垣からは福島正則隊8戦力が桑名に進攻。同地を守る西軍鍋島勝茂(1-1)、長宗我部盛親(1-1)らの野戦部隊を戦闘状態に入った。西軍は長宗我部隊3戦力を桑名城に籠らせ、鍋島隊4戦力だけで東軍16戦力を迎え撃ったが、兵力差は如何ともしがたく鍋島隊は文字通り最後の一兵まで戦って壊滅した。
一方の西軍。東軍の桑名侵攻を見極めた上で、宇喜多秀家率いる8戦力の野戦軍を佐和山から大垣に進めた。大垣には池田輝政率いる野戦軍8戦力が待機していた。ほぼ同戦力の東西両軍。しかし野戦能力では宇喜多勢が有利である。池田勢は野外決戦を回避し、大垣城籠城策を選んだ。

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上記について東軍の立場から説明すると、東軍としてはここで一気に勝負を決めるつもりであった。東軍側のセオリーとしては家康公の到着を待ってから攻勢に転じるべきという考えもある。しかし家康公の来着を待っていては、西軍側の体制も整備され、突破が困難になる上、状況がどう変転するかわからないという不安もあった。後の展開を見てみるとこの決断は必ずしも正しかったとはいえないかもしれないが、当時としてはベストであると考えていたのも確かである。

6.愛の旗印の下に

一方の北陸戦線。窮地に陥った主君上杉景勝を救うべく、直江兼継(3-2)が手勢4戦力を率いて新発田城にはせ参じてきた。新発田城野外で陣を敷く東軍浅野幸長隊6戦力は、大筒を撃ちかけて直江勢を襲う。瞬時に兵力の半数を失う直江勢。しかしここからが直江の本領発揮である。敵に対して半数以下の兵力でありながら指揮能力の優越を生かして猛烈な攻撃を加えてきた。東軍浅野勢は兵力こそ多いものの、その実態は烏合の衆だといってよい。散々に蹴散らされた浅野勢は、ほうほうの体で西向けて退却するしかなかった。

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7.敵中突破、福島正則

畿内戦線では東軍が再び攻勢を強めていた。福島隊8戦力は桑名から水口に進攻。同地を守る西軍小早川、吉川両隊に対してカードによる工作によって中立化に成功。水口を無血占領した。
桑名では黒田隊8戦力(内3戦力損耗)が桑名城を守る長宗我部隊3戦力を「野戦強要」によって野外に引きずり出すことに成功。これを完全に撃破した。

水口では福島隊が「威嚇射撃」によって小早川、吉川両隊を寝返らせることに成功。さらに大津を守る京極高次(1-1)もカードによって東軍に寝返らせて進路を確保した福島隊は、一気に伏見に突進した。伏見から先には大阪城がある。福島隊が大阪城を抑えれば、野外に展開する西軍のほぼすべてが連絡線遮断のペナルティを背負うことになる。

無論西軍も黙ってはいない。主力野戦部隊ともいうべき宇喜多隊、石田隊計15戦力が南北から桑名に殺到した。東軍中村一忠(1-1)の裏切り等もあって苦戦を強いられた東軍黒田隊は、大損害を受けて清州に向けて後退していった。

引き続いて西軍は、石田隊4戦力が郡山に戻って東軍福島隊の動きを牽制する一方、宇喜多隊8戦力は水口に向けて進撃していった。東軍は寝返った小早川秀秋6戦力を野外に展開、吉川元春2戦力を籠城させたが、吉川めは恥知らずにまたもや西軍に寝返りし、小早川勢は水口から撤退するしかなかった。

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