イメージ 1

「信長最大の危機」については説明は不要であろう。1570年(天正元年)の金ヶ崎からの撤退戦から始まる織田信長による平定戦を1Turn=半年、1ユニット=1500~2000名、ポイントトウポイントシステムで再現する。
1996年にGame Journal誌の付録として発表された本作は、21世紀に入って第2版として再販され、さらに米MMP社からは英語版が発売されている。余談だが、本作は2010年に米国でチャールズ・ロバーツ賞を受賞している。

本作と私の関わりだが、1996年の初版発売時から何度となくプレイした。当時はプレイスタイルが現在ほど進歩しておらず、両軍とも派手な城郭争奪戦を行った結果、カード数で有利に立った反織田方が勝利する、というパターンが殆どであった。(それはそれで面白かったが・・・)。

ちなみに最近ではプレイスタイルが進歩し、織田方も守るべきポイントと無視すべきポイントの見極めがつきやすくなってきたようだ。また無謀な突進は後方連絡線遮断とそれに起因する主力部隊壊滅を引き起こすことが周知されてきたので、無謀な突進が抑制されてきたこともある。その結果、プレイスタイルはかなり安定したものになり、城郭争奪戦も起こり難くなっているようだ。その結果、京の確保によって安定したカード数取得を保障されている織田方が徐々に有利になってきているようである。

今回、この傑作ゲームを対戦する機会に恵まれた。ルールは上級ルール・選択ルールを全て採用した。私は織田側を担当する。
一応事前にルールを読み、ソロプレイで感覚を確認した。その結果、織田方の作戦方針や戦術面で注意すべき点などは確認できた。それでも裏切りカードによる一発逆転や一向一揆の突然発生による後方連絡線遮断等、不確定要素は常にある。プレイは常に緊張と波乱に満ちたものになる。

1Turn(元亀元年)

イメージ 9織田方を担当する下名にとって、当面の目標としては、伊勢長島の一向宗殲滅、南近江の六角氏平定、佐和山城攻略による中山道打通、そして比叡山延暦寺の包囲がある。最後の延暦時については、湖西道経由で浅井・朝倉の本拠地を狙うルートを確保するためだ。浅井・朝倉が南近江に出てきたならば、すかさず別働隊を小谷、金ヶ崎方面まで長躯出撃させ、浅井・朝倉の補給線を断ち切るためだ。

第1Turnの織田方は、兎に角金ヶ崎から撤退し、京都で再起を図ることだ。京都に生還できたのは全戦力の約半数で、そのうちさらに半数は織田信長公に引きられて京都に到着。残り4戦力は佐久間信盛が率いて延暦寺を囲む。また2戦力は金ヶ崎に残り、城に籠って時間稼ぎ。


2Turn(元亀元年)

イメージ 10茨木に三好三人衆が来襲、さらに南河内の信貴山には、本願寺勢が押し寄せてきた。織田信長公は8戦力を率いて茨木まで南下。三好三人衆と対峙する。指揮能力、兵力のいずれも有利に立つ織田方に対して、三好勢は退却を決意。追撃戦の過程で大戦果を期待した織田方であったが、三好勢は巧みに退却し、織田方の追撃戦を許さなかった。

イメージ 2


伊勢路では柴田勝家麾下の8戦力(内4戦力は徳川勢)が伊勢長島に籠る一向宗徒4戦力を囲む。強襲によって一気に揉みつぶそうとするものの、一向宗徒は強かった。一向宗1戦力を撃破するも、柴田勢は3戦力を失う。
「これじゃ、まるで203高地だよ・・・・」

イメージ 3



3Turn(元亀2年)

信長公自ら率いる8戦力が六角氏の本拠である近江箕作城を襲う。しかし六角氏は善戦し織田方の攻勢を寄せ付けない。

イメージ 4



6Turn(元亀3年)

イメージ 11「終了」チットが続いたので、状況変わらないまま年が経った。いよいよ武田信玄が参戦してくる。信長公にとって最大、最強の敵の一つである。未だに浅井領は無傷、六角は健在、伊勢長島も生き残っている状況で信玄の参戦は・・・、痛い。

7Turn(天正元年)

イメージ 12その武田信玄が信濃国から青崩峠を越えて遠江国に乱入してきた。二股城を囲んだ信玄以下8戦力が、二俣城を瞬殺する。その間、織田勢が全く動かない。チットを引かないのだ。
「えーい、信長、動け。なぜ動かん・・・?」

イメージ 5



8Turn(天正元年)

イメージ 13武田信玄以下8戦力がいよいよ徳川家康の本拠である浜松城に襲い掛かってきた。浜松に籠る徳川勢は家康以下3戦力。4戦力入れておかなかった迂闊さを悔やんだが、後の祭りである。下手をすれば一撃陥落の恐怖に怯える徳川勢。
彼らは奮戦した。防御射撃で武田勢3戦力を撃破し、こちらの損害はなし。さすがは三河武士。

ここで漸く織田勢が動いた。伊勢路から滝川一益麾下4戦力が浜松に急進する。また伊勢長島攻撃を担っていた徳川勢4戦力もそれに加わる。計8戦力が浜松救援に来援した。さらに信長公は家康公を「方面軍総大将」に任命する。これで信玄と同格になった家康公は、倍の兵力で武田勢に猛烈な逆襲を仕掛ける。
「三方ヶ原の合戦」
この戦いは織田・徳川勢の一方的な勝利となった。武田信玄自らが負傷するという大損害を被った武田勢は事実上壊滅。生き残った少数の兵が甲斐国へ這う這うの体で逃げていった。


イメージ 6



イメージ 14畿内方面でも動きがあった。明智光秀麾下の4戦力が浅井領である近江佐和山城を攻め、これを落城させた。これにより中山道経由での岐阜-京間の連絡線を確保した。また比叡山延暦寺を囲む丹波長秀麾下の2戦力が比叡山に侵攻。世にいう「延暦寺の焼き討ち」を実施したのである。これより比叡山延暦寺は事実上壊滅。織田勢は湖西線経由で近江、越前に至る連絡線を確保した。丹波長秀は少数の守備隊を残して京に撤収。京で戦勝を祝い合った。

しかし良いニュースばかりではない。西大和の要域信貴山を攻める本願寺勢は信貴山城を陥落させ、同地を守る松永久秀を討死せしめていた。


9Turn(天正2年)

イメージ 15このTurn、織田方にとって朗報から始まった。まず南近江を守る六角氏が降伏。織田方が南近江一帯を支配した。いよいよ北近江の雄、浅井長政と決戦か・・・。
さらに伊勢長島の一向宗徒も遂に全滅した。これで伊勢路の治安が回復された上、浮いた兵力を他方面に展開できる。

しかしこの時驚くべき知らせが入った。比叡山を守る織田勢守備隊が突然反旗を翻して比叡山延暦寺を占領したのである。延暦寺焼き討ちに憤慨した一部の兵達による煽動による反乱とも言われているが、定かではない。あるいは京にいる足利義昭が裏で糸を引いているという噂もあった。

イメージ 16何はともあれ京の北面の防御線に大穴が空いたのは織田勢にとって大脅威であった。速やかにその穴を埋めなければならないが、その機会を得る前に朝倉義景が動いた。麾下の8戦力を率いて琵琶湖西岸を南下。一気に京に乱入してきたのである。
当時京には佐久間信盛、丹波長秀ら8戦力が守備隊として滞在していた。兵力的には互角だったが、総大将として全軍を統一指揮する朝倉勢に対し、総大将を欠き、指揮の統一を欠いた織田勢は朝倉勢の攻勢を支えきれなかった。結局損害を被った織田勢は大津に向けて後退。京は朝倉義景の支配する所となったのである。

足利義昭は京にて室町幕府の復活を宣言。朝倉義景を副将軍に任じ、信長追討を命ずる。

イメージ 7



10Turn(天正2年)

イメージ 17さらに悪い知らせは続いた。紀伊で一向一揆発生。大量の一向宗徒が石山本願寺勢と合流することになる。さらに本願寺に同調する雑賀孫一らが大和郡山に攻めてきた。大和郡山を守る筒井順慶は必至の防衛戦を展開するが、兵力に勝る一揆勢に次第に追い詰められていく。

イメージ 8