1756年

まず8月にダンツィヒが陥落。これにより東プロイセンとプロイセン本国との連絡線が開かれた。
またザクセン地方もライプツィヒ、ドレスデン、トルガウといった要域が次々と陥落。10月までにはザクセン地方一帯もプロイセン軍が制圧した。
対する連合軍は、オーストリア軍主力はモラビアのブルンに集結。また帝国諸候もライン河畔のコブレンツに集結した。しかし後者については帝国領の広い範囲をプロイセン軍の前に無防備な形で解放する結果となってしまい、結果的にその侵攻を助ける形になってしまった。

1757年

オーストリア軍はシレジア地方に侵攻しシュフィドニツァ、グラツ、ナイゼ、ブリンクといったシレジア地方一帯を制覇していった。対するプロイセン軍は名将ザイドリッツ(★3)率いる2個軍団をブレスラウに派遣し、オーストリア軍のこれ以上の侵攻に備える。
その頃フリードリヒ(★★2)はザクセンよりボヘミアに向けて南下を開始。ボヘミアの首都プラハを囲む。2個軍団16戦力による攻撃によりプラハは一撃で陥落。ボヘミアへの門戸はプロイセン軍に対して大きく開かれた。機を逸せずプロイセン軍は東に向かい、Koniggrantzを攻撃。ここを占領していった。


1758年

勢いに乗るフリードリヒ軍はオミュレッツに進軍。ここを守るオーストリア軍と対峙する。兵力的にはほぼ互角の両軍だったが、オーストリア軍を率いるチャールズ・ロレーヌ公(★★0)は名にし負う「愚将」。全く役に立たない将軍で、極端な言い方をすれば「いない方がマシ」な程であった。
このバカ殿のおかげでオーストリア軍は一方的な敗北を被り、オミュレッツから退却を余儀なくされてしまう。オミュレッツをプロイセン軍が囲んだことにより、シレジア地方で作戦中のオーストリア軍2個軍団は、一挙に連絡線切れの状態に陥った。
その頃ロシア軍は再びケーニクスブルグを囲んだが、またもや「ブランデンブルグの奇跡」によって本国への引き上げを余儀なくされていた。

1759年



最終的にはウィーン、ブダペストがプロイセン軍の攻撃により陥落。頼みのロシア軍もケーニクスブルグを占領するのがやっとという状態で、プロイセン軍の勝利でゲームが終了した。

感想

まず下名が担当したフランス軍についてだが、3つの軍団に分けて包囲を狙ったのは完全な失敗であった。そのため中央を逆に英ハノーファ軍に突かれる形になってしまい、両翼の部隊が一挙に補給切れになってしまった。フランス軍は兵力こそ多いものの、機動力に乏しく、英軍やプロイセン軍と機動戦になったら勝ち目がない。従って主力は退路を確保した地点で集結しつつ、少数兵力での機動戦を挑むのが正しい戦術ではなかったか。大兵力を分けてしまうと、機動力に勝る敵にとって格好の獲物を与える結果となってしまった。

ロシア軍については何と言ってよいか・・・。「ブランデンブルグの奇跡」カードで追い返されたのは不幸であったが、出目やチット引きが悪かったのも否定できない。もう少しロシア軍が動いてくれればプロイセン軍を慌てさせることもできたのに、やや残念である。
いずれにしてもプロイセン軍が中盤にゲームを決する展開を始めてみた。ダイス目や練度差もあったが、今回はプロイセン側プレイヤーの見事な指揮ぶりに敬意を表したい。だけど・・・、
「今度は負けないぞ」
「今度は負けないぞ」

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