イメージ 23

「信長最大の危機」は、所謂信長包囲戦を扱ったシミュレーションゲームで、1570年から10数年に渡って繰り広げられた信長包囲戦を、1Turn半年、1ユニット約2千弱の兵員で再現する。

今回、「信長最大の危機」をVASSAL対戦することになった。下名は信長方を担当する。

前回まで-->こちら

7Turn(1573年前半)

イメージ 12信長公は決断した。援軍の派遣である。越前に陣を敷いていた信長公の本隊は、滝川一益・羽柴秀吉率いる1個軍団を現地に残して転進。1個軍団を率いて尾張の清州に着陣した。また伊賀上野平定戦を終えた柴田勝家、荒木村重率いる1個軍団も伊賀から長駆移動して清州に集結。この結果、清州に集結した織田側の機動打撃兵力は2個軍団計3万となり、少なくとも数の面では武田勢を凌駕するに至った。しかし清州から想定戦場である浜松まではまだ遠い。その間、浜松に対する武田の攻撃はなおも続いており、徳川側は善戦して武田勢に出血を強いてはいるものの、徳川方も次第にジリ貧になってきた。

イメージ 13このような織田側の苦境を見越してか、畿内では他勢力の動きが活発になってきた。先に茨木の合戦で信長公にフルボッコにされた三好勢であったが、数年間の雌伏の時を経て、約1万2千の兵を率いて再び畿内に上陸してきた。彼らの常套手段は茨木強襲。しかし茨木には細川藤孝率いる約4千の兵が待ち構えていた。三好勢は無理な強襲を避け、城を囲んで時を待った。

イメージ 1



8Turn(1573年後半)

イメージ 14最初に引いたチットは「織田」。清州を発した信長公以下約3万の兵は、東海道を東へ向かった。浜松を囲む武田勢の勢力は、度重なる強襲攻撃の痛手からはまだ完全には回復しておらず、1個軍団約1万5千に過ぎない。そこへ信長公自ら率いる約3万と、浜松城から打って出た家康公率いる約4千が合流した。2倍以上の圧倒的な兵力差を見た信玄公は浜松の包囲を解いて掛川へ後退。そこは流石に信玄公で、巧みな後退戦によって1兵も失うことなく掛川に後退していった。何はともあれ徳川家康はその生涯最大の危機を乗り切った。

イメージ 15畿内方面でも織田方の反撃は始まる。羽柴秀吉、丹羽長秀、明智光秀の3将が率いる1個軍団約1.5万が、京を出発。淀川沿いに南下して茨木に達したのである。茨木城を守っていた細川勢もこれに合流する。2倍の兵力差を見た三好勢は後退を始めるも、そこへ織田勢約2万が襲いかかった。三好勢は半数以上の兵を失って野田・福島へ撤退していった。

イメージ 2



9Turn(1574年前半)

畿内の戦闘。いつもなら三好勢を撃退した織田方は、茨木よりも前には進まず、京に引き上げるのが常だった。何故なら茨木より先へ進むと、石山に籠る本願寺勢に側面を晒すことになり、補給面でのリスクが大きいからだ。また茨木より先の城を攻め落としても、本願寺や毛利の反撃で奪い返される目算が高い。城の争奪戦は、京を押さえる織田側にとって不利に働く(京を持たない側は、城を1つ奪う毎に政治カードを1枚ゲットできる)ので、下手に進むよりも現在地を死守した方が得策なのだ。

イメージ 16しかし今回は違っていた。茨木に布陣した織田軍約2万のうち、丹羽長秀率いる半個軍団約8千が茨木を発して野田福島の三好を囲んだのである。先の第2次茨木の合戦で大損害を被った三好勢に打って出る力はなく、城に籠るしかなかった。それを見越した織田勢は、野田福島を囲んだまま別動隊がスルスルと移動して海を越え淡路島に上陸。洲本を占領したのである。
そして織田側が出したカードは「三好の調略」。
かねてより織田側からの調略を受けていた三好勢は洲本の陥落によって前途に見切りをつけ、織田側に寝返ることを決意した。こうして織田側は四国阿波から淡路島、大阪湾にかけて広がる三好の領地を手に入れたことになる。

イメージ 3



イメージ 17遠江の戦線では、浜松の危機が去ったので信長公麾下の織田軍主力は一旦豊橋まで後退。武田の動きを見ながら伊那路への進撃作戦を進めていた。荒木村重率いる半個軍団約8千が二俣城から天竜川沿いに北上。武田勢約2千が籠る飯田城を囲んだ。一方の武田勢は山県昌景らが信玄公の本隊と合流。約2万強の兵力となった武田本隊が掛川に集結して織田・徳川方の動きを牽制する。

イメージ 4



10Turn(1574年後半)

いきなり「終了」チット。

11Turn(1575年前半)

イメージ 18雑賀孫一率いる雑賀衆と本願寺勢の約6千が松永久秀が守る信貴山城を囲んだ。松永率いる兵は約4千。ただの坊主集団が相手なら十分互角以上に戦える筈だが、雑賀孫一は違う。無類の戦上手で、特に小兵力による駆け引きに優れた手腕を発揮する。そこで松永勢は野戦を避けて籠城。織田の援軍を待つ。

三好の調略を終えた織田方は、滝川一益、丹羽長秀率いる1個軍団約1万5千を信貴山城に向かわせた。現地の松永勢と合わせると2万弱の大軍になる。如何に孫一戦上手とはいっても、3倍以上の兵力相手では勝ち目がない。雑賀衆はすぐに撤退を決意したが、完全に撤退する前に織田側の追撃に捕まった。雑賀衆はこの戦闘で完全に撃破され、孫一も一時行方不明となってしまう。

武田戦線では織田側の小兵力が信濃領内にゲリラ的に進攻。また柴田勝家麾下の半個軍団約8千も長篠城経由で信濃へ向かった。対する武田勢は馬場信春率いる約4千の兵を北方戦線の守りにつかせる。

イメージ 5



12Turn(1575年後半)

イメージ 19馬場信春麾下の半個軍団約8千が反転攻勢に転じた。伊那路高遠まで進出してきた織田側の先鋒約4千をたたいたのである。しかし織田側は決戦を避けて高遠城に籠城。馬場隊は高遠城を囲んで兵糧を断った。しかし結果的にはこの馬場信春の反転攻勢が、武田滅亡の引き金となってしまう。

イメージ 6



13Turn(1576年前半)

織田側のチットが連続した。信濃路を疾駆する織田側の小部隊は、信濃から一気に甲斐に乱入。武田の本城である甲府を陥れたのである。武田側もすぐに反撃の部隊を送るが、補給切れのために動きが鈍い。山形昌景率いる約4千がようやく甲府に到着したが、甲府に立てこもる織田側を包囲するしかできない。
そうこうしている間に信玄公が持病を悪化させてこのTurnにお亡くなり。喪に伏した武田勢は、駿河と甲斐の狭間で根なし草になってしまう。

イメージ 7



14Turn(1576年後半)

イメージ 20甲府に進撃していた武田側の武将木曽義昌が織田方に寝返った。いよいよ窮地に立つ武田方に対し、最後の攻撃が仕掛けられようとしている。
徳川家康と柴田勝家率いる織田・徳川連合軍1万5千が掛川に陣を張る武田勝頼隊に襲い掛かった。兵力的にはほぼ互角の両者だが、連絡線を切られて士気の下がった武田方に勝ち目はなかった。織田・徳川連合軍の猛攻の前に武田勝頼は敵に捕らえられてしまう。勝頼は打ち首。ここに名門武田家は滅んだ。

イメージ 8



15Turn(1577年前半)

イメージ 21京都にいる足利義昭が反旗を翻した。約2千の兵を率いた義昭軍は填島に陣を敷く。今日に布陣する羽柴秀吉麾下の1個軍団が槙島を囲んだ。1万5千による攻撃を受けて義昭軍は降伏。足利義昭は毛利領に落ち延びていった。ここに200年以上続いた室町幕府は事実上崩壊した。

足利義昭という獅子身中の虫を追い払った織田信長公であったが、地方の情勢は必ずしも楽観できる状況ではかった。活動を開始した毛利勢は、小早川隆景、吉川元春率いる約2万の兵が山陰道を進出して但馬の出石城を落していた。また毛利輝元率いる本隊約1万5千は、宇喜多隊約1万強と合同し、山陽道を東に向かう態勢を整えていた。
また北方からは越後の龍、上杉謙信が西へ向けて動き始めていた。上杉動くの報に接した朝倉義景は勢いを得て越前府中城を強襲。織田側の守備兵を殲滅して同地を奪回した。

イメージ 9



16Turn(1577年後半)

イメージ 22越中にいた上杉謙信が、1個軍団1万5千を率いて北近江に現れた。小谷城を守るのは、ほぼ同兵力の織田軍。「姉川の戦い」と呼ばれる合戦で織田側は完膚なきまでに撃破された。佐久間信盛公は討死。滝川一益は負傷して退場する。上杉軍のいきなりの急進撃に驚愕する織田方なのであった。

上杉公快進撃の報は日の本中に響き渡った。そのため能登の畠山義隆、播磨の別所長治、丹波の波多野秀治が次々と反織田方の旗を上げた。いきなり敵に囲まれて苦悩する信長公。織田方は佐和山城に信長公自らが率いる織田・徳川連合軍の2個軍団以上約4万が集結。また京から南近江一帯に荒木村重、羽柴秀吉ら2個軍団以上約4万を集結させていた。

毛利の軍勢は但馬から国境を超えて丹波に進出。黒井城を陥落させていた。また山陽道は側面の安全を確保した毛利・宇喜多連合軍は加古川まで進出していた。

イメージ 10


17Turn(1578年前半)

小谷を落城させた上杉謙信は、そのまま北近江に布陣。佐和山に布陣する織田信長直率の部隊と対峙する。
織田方は荒木村重率いる1個軍団が京を出撃し、比叡山延暦寺を囲む。荒木軍の猛攻を受けて延暦寺の僧兵隊は壊滅。織田方は琵琶湖西岸の進撃路を確保した。

イメージ 11