「信長最大の危機」は、所謂信長包囲戦を扱ったシミュレーションゲームで、1570年から10数年に渡って繰り広げられた信長包囲戦を、1Turn半年、1ユニット約2千弱の兵員で再現する。
今回、「信長最大の危機」をVASSAL対戦することになった。下名は信長方を担当する。
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7Turn(1573年前半)



8Turn(1573年後半)



9Turn(1574年前半)
畿内の戦闘。いつもなら三好勢を撃退した織田方は、茨木よりも前には進まず、京に引き上げるのが常だった。何故なら茨木より先へ進むと、石山に籠る本願寺勢に側面を晒すことになり、補給面でのリスクが大きいからだ。また茨木より先の城を攻め落としても、本願寺や毛利の反撃で奪い返される目算が高い。城の争奪戦は、京を押さえる織田側にとって不利に働く(京を持たない側は、城を1つ奪う毎に政治カードを1枚ゲットできる)ので、下手に進むよりも現在地を死守した方が得策なのだ。
そして織田側が出したカードは「三好の調略」。
かねてより織田側からの調略を受けていた三好勢は洲本の陥落によって前途に見切りをつけ、織田側に寝返ることを決意した。こうして織田側は四国阿波から淡路島、大阪湾にかけて広がる三好の領地を手に入れたことになる。



11Turn(1575年前半)

三好の調略を終えた織田方は、滝川一益、丹羽長秀率いる1個軍団約1万5千を信貴山城に向かわせた。現地の松永勢と合わせると2万弱の大軍になる。如何に孫一戦上手とはいっても、3倍以上の兵力相手では勝ち目がない。雑賀衆はすぐに撤退を決意したが、完全に撤退する前に織田側の追撃に捕まった。雑賀衆はこの戦闘で完全に撃破され、孫一も一時行方不明となってしまう。
武田戦線では織田側の小兵力が信濃領内にゲリラ的に進攻。また柴田勝家麾下の半個軍団約8千も長篠城経由で信濃へ向かった。対する武田勢は馬場信春率いる約4千の兵を北方戦線の守りにつかせる。

12Turn(1575年後半)


13Turn(1576年前半)
織田側のチットが連続した。信濃路を疾駆する織田側の小部隊は、信濃から一気に甲斐に乱入。武田の本城である甲府を陥れたのである。武田側もすぐに反撃の部隊を送るが、補給切れのために動きが鈍い。山形昌景率いる約4千がようやく甲府に到着したが、甲府に立てこもる織田側を包囲するしかできない。そうこうしている間に信玄公が持病を悪化させてこのTurnにお亡くなり。喪に伏した武田勢は、駿河と甲斐の狭間で根なし草になってしまう。

14Turn(1576年後半)

徳川家康と柴田勝家率いる織田・徳川連合軍1万5千が掛川に陣を張る武田勝頼隊に襲い掛かった。兵力的にはほぼ互角の両者だが、連絡線を切られて士気の下がった武田方に勝ち目はなかった。織田・徳川連合軍の猛攻の前に武田勝頼は敵に捕らえられてしまう。勝頼は打ち首。ここに名門武田家は滅んだ。

15Turn(1577年前半)

足利義昭という獅子身中の虫を追い払った織田信長公であったが、地方の情勢は必ずしも楽観できる状況ではかった。活動を開始した毛利勢は、小早川隆景、吉川元春率いる約2万の兵が山陰道を進出して但馬の出石城を落していた。また毛利輝元率いる本隊約1万5千は、宇喜多隊約1万強と合同し、山陽道を東に向かう態勢を整えていた。
また北方からは越後の龍、上杉謙信が西へ向けて動き始めていた。上杉動くの報に接した朝倉義景は勢いを得て越前府中城を強襲。織田側の守備兵を殲滅して同地を奪回した。
また北方からは越後の龍、上杉謙信が西へ向けて動き始めていた。上杉動くの報に接した朝倉義景は勢いを得て越前府中城を強襲。織田側の守備兵を殲滅して同地を奪回した。

16Turn(1577年後半)

上杉公快進撃の報は日の本中に響き渡った。そのため能登の畠山義隆、播磨の別所長治、丹波の波多野秀治が次々と反織田方の旗を上げた。いきなり敵に囲まれて苦悩する信長公。織田方は佐和山城に信長公自らが率いる織田・徳川連合軍の2個軍団以上約4万が集結。また京から南近江一帯に荒木村重、羽柴秀吉ら2個軍団以上約4万を集結させていた。
毛利の軍勢は但馬から国境を超えて丹波に進出。黒井城を陥落させていた。また山陽道は側面の安全を確保した毛利・宇喜多連合軍は加古川まで進出していた。

17Turn(1578年前半)
小谷を落城させた上杉謙信は、そのまま北近江に布陣。佐和山に布陣する織田信長直率の部隊と対峙する。織田方は荒木村重率いる1個軍団が京を出撃し、比叡山延暦寺を囲む。荒木軍の猛攻を受けて延暦寺の僧兵隊は壊滅。織田方は琵琶湖西岸の進撃路を確保した。
