もりつちの徒然なるままに

ウォーゲームの話や旅の話、山登り、B級グルメなどの記事を書いていきます。 自作のウォーゲームも取り扱っています。

2014年11月

イメージ 1

南方進攻航空戦1941-1942

クリストファー・ジョアーズ他 伊沢保雄訳 大日本絵画

本書は「BLOODY SHAMBLES」の日本語版である。本書を購入したのは今から10年以上前だったと思うが、読まずに放置したままの状態が続いていた。今回一念発起して読み通してみたが、なかなか面白い。1941年12月から翌42年2月のシンガポール陥落までの南方方面における航空戦を連合軍側の視点から描いたものだが、日本軍側の記録も結構詳しい。日記風に淡々と筆致を進めていくスタイルだが、その中で我々が知らなかった事実が色々と見えてくるのが興味深い点である。
本書の魅力は連合軍側、就中英軍や蘭軍の事情に詳しいこと。米軍関係の資料なら結構書籍が出回っていて比較的入手も容易だが、英軍や蘭軍の場合はそうはいかない。特にオランダ軍のバッファローやハドソンの活躍については日本側では殆ど知られていないというのが実情である。
本書を読んで違和感を覚える点は、終わり方が唐突過ぎること。シンガポール陥落の時点で終えているのだが、実際にはこの後も蘭印航空戦は続いており、バターン半島での米軍の抵抗も続いている。シンガポール陥落というタイミングは中途半端と言わざるを得ない。恐らく本書が扱っているのは「BLOODY SHAMBLES」の前半部分だけで、後半部分は諸般の事情により日本語化されなかったのだろう。英語版の「BLOODY SHAMBLES」について下名は未読だが、アマゾンの説明を読むとスマトラ防衛戦やセイロン空襲等も記載されているらしい。後半部分について日本語版の出版がほぼ絶望的な今日、続きを読みたければ英語版にトライするしかなさそうだ。

お奨め度★★★★

イメージ 1

イメージ 2

北近畿を旅行した際に立ち寄ったラーメン屋が「チャクリキ」です。
事前情報なしで入ってみたのですが、これが思わぬヒットでした。
つけ麺を注文した所、これが美味しい。
麺もよし、つけ汁もよしで、思わぬ所で見つけたB級グルメです。

お奨め度★★★

イメージ 1

YSGA例会で「信長最大の危機」をプレイした。
今回は反織田方でプレイしてみた。


1Turn(1570年)

朝倉軍による金ヶ崎攻撃を行う。しかし金ケ崎は陥落せず。
畿内では雑賀と本願寺の連合軍が松永久秀を信貴山城に囲む。しかしこれも陥落しなかった。

イメージ 2


3Turn(1571年)

イメージ 13信長公が動いた。1個軍団8戦力の兵力が三好領野田福島に来寇してきたのである。三好勢は撤退を決意していたが、織田方は奇襲カードで三好勢の撤退を阻止した。大損害を被った三好勢は畿内より後退。三好三人衆も負傷のため一時戦列を離れる。

4Turn(1571年)

イメージ 14河内灘に織田方が誇る自慢の鉄工船が現れた。河内灘の制海権を確保した織田方は、紀州の雑賀城、淡路島の三好領洲本を占領した。さらに信長公自ら率いる1個軍団が石山本願寺を包囲する。

5Turn(1572年)

イメージ 15本願寺勢は雑賀の本城である雑賀城を奪回した。また北では織田方の金ヶ崎城を朝倉義景率いる1個軍団が漸く金ヶ崎城を奪回していた。
その間、南方方面では六角氏が籠る南近江の箕作城を織田軍が攻撃。これを瞬殺せしめていた。

イメージ 3


6Turn(1572年)

イメージ 16いよいよ武田信玄が動き出す。調略戦で掛川城を落した信玄麾下の1個軍団8戦力が徳川家康の守る浜松城を囲んだ。浜松城を守る徳川勢4戦力。功を焦った信玄公は浜松城に対して強襲攻撃を仕掛けた。浜松城からの防戦は猛烈を極め、武田勢は兵力の半数を失い後退。徳川も1戦力を失った。

イメージ 17「浜松危うし」の報に接した織田方は直ちに援軍を派遣。明智光秀率いる半個軍団4戦力が東海道を長駆東進。浜松付近で徳川軍と合流。浜松城外に陣取る武田勢に対して野戦を仕掛けた。織田徳川連合軍の戦力は8戦力、対する武田軍は4戦力。兵力に倍する連合軍は第1ラウンドで主導権を取った後は終始武田勢を圧倒。後に「三方ヶ原の合戦」と呼ばれる戦いで、武田軍は壊滅的な損害を被った。信玄公もあえなく討死してしまう。

結果から言えば大敗を喫した武田側であったが勝機はあった。なんといっても指揮能力はこちらが勝っているのである。ただ兵力半数はやはりやや無謀だったかもしれない。西国での織田側の跳梁を少しでも弱めるために浜松城を強襲したが、やはりここは囲んで調略でじっくり潰していくのが得策だったろう。

イメージ 4


畿内方面では四国にまで渡っていた滝川一益が勝端城を包囲。これを占領していた。ここに三好勢は壊滅。三好領は織田の支配下になってしまう。

7Turn(1573年)

播摩の別所氏と波多野氏が信長に対して反旗を翻した。波多野勢の一部が丹波の黒井城を占領する。

イメージ 5


9Turn(1574年)

イメージ 18比叡山に進出していた浅井長政麾下の半個軍団4戦力が京都市内に乱入した。京都を守る織田軍は雑兵のみの2戦力。歴戦の浅井軍に敵うはずもなく織田軍は敗退。京は浅井長政の支配する所となった。

イメージ 6


10Turn(1574年)

イメージ 19浅井長政は京の南、填島に別働隊を進出させた。これで京都以西の織田軍主力は全て補給切れになる。慌てた織田方は羽柴秀吉率いる半個軍団4戦力を填島に進出せしめた。填島を守る浅井軍は籠城。ここで織田方は一旦補給線を解放した。

この時羽柴秀吉が単独でいたのはチャンスであった。というのも手元に「羽柴秀吉寝返り」カードがあったからである。よし、次のTurnは貰った。と思った矢先、織田方がなんと「密報」カード2枚を使ってきた。こちらのカードは全て露呈してしまった。あーあ、ここまでか、と思ったが、どうやら相手は「刺客」カードを持たなかったらしい。見られただけで終わった。

イメージ 7


11Turn(1575年)


イメージ 24ここで足利義昭公は切り札を切った。「大返し」カードで初動をとった義昭公は羽柴秀吉に対して密書を発し羽柴秀吉に寝返りを促した。羽柴秀吉は信長に反旗を翻し填島を出撃。茨木城を囲んだ。

イメージ 8


13Turn(1576年)

イメージ 20いよいよ毛利が動いた。西から宇喜多勢が東進を開始。姫路城を占領する。
と思ったら制海権を握る織田勢は、滝川一益が僅かな手勢を率いて河内灘、播磨灘を経て宇喜多の本城である岡山城を占領していた。これで宇喜多勢は補給切れである。

滝川一益による岡山占領には宇喜多を寝返らせるという織田方の恐るべき野心が隠されていた。その野心は次Turnの展開によって結局未遂に終わったが、後から振り返るとホントにヤバイ瞬間だった。

イメージ 9


14Turn(1576年)

イメージ 21先手を取った毛利勢が岡山を包囲。ここを強襲して滝川一益を討死させていた。これで宇喜多への補給線は回復した。
一方の織田側は京都に対して反転攻勢を仕掛ける。まず丹波長秀率いる半個軍団4戦力が琵琶湖東岸を北上。浅井の本城である小谷を囲む。これで京都に進出している浅井長政は補給切れ。頃合い良しとして柴田勝家率いる1個軍団8戦力が京に乱入する。兵力に劣り、しかも補給切れという悪条件下で浅井勢は苦戦を強いられる。浅井長政は命からがら比叡山に撤退していく。

この時手元に「天皇の停船命令」があったのだが、使うことをすっかり失念していた。いやー、勿体ない。

さらに織田側は畿内で掃討戦を続け、茨木を囲む羽柴秀吉勢は織田信長直率軍団の攻撃により壊滅。秀吉公も討死してしまう。

イメージ 10


その頃、遥か東方の東美濃では、信玄公討死の衝撃から立ち直った武田勢が再び攻勢を開始していた。馬場信春率いる半個軍団(4戦力)が岩村城を攻撃。これを占領していた。

15Turn(1577年)

イメージ 22北国の雄、上杉謙信が動き始めた。春日山を発した1個軍団10戦力が富山城をを攻撃。一撃に元にこれを占領していた。恐るべき上杉。
「謙信立つ」の動きに呼応した一向一揆勢が近江で大規模な一揆を展開。大津、佐和山、横山を落し、小谷を攻める丹羽長秀の背後を断つ。それに呼応した加賀の一揆勢が越前から北近江に乱入。丹羽長秀麾下の部隊に襲いかかる。
一揆勢とは思えぬ程統制の取れた一向一揆勢の攻勢に対し、丹羽長秀は成すすべもなかった。麾下の兵力は壊滅。丹羽長秀自身も撤退の途中に雑兵に討ち取られてしまう。

16Turn(1577年)

イメージ 13毛利麾下の吉川広家率いる1個軍団が丹波亀山城を占領する。最早京は目の前だ。
しかし毛利勢に先んじて京に乱入したのは、朝倉義景率いる浅井・朝倉連合軍1個半12戦力の軍勢である。京を守る織田信長麾下1個軍団8戦力に対し、絶対の自信を以て襲いかかった。
浅井・朝倉軍勢が出したカードは「奇襲」。しかし織田方は「待伏せ」カードでそれを無効化し、逆に先手を取った。驚愕する浅井・朝倉。しかし最初の一撃を凌げば勝機はある。なんせ兵力はこちらの方が上なのだから・・・。しかし続いて織田方は「鉄砲の集中使用」を使ってきた。これにはさすがの浅井・朝倉勢もかなわない。大損害を受けた浅井・朝倉勢は、ほうほうの体で延暦寺へ向けて撤退していく。
「おのれ、信長・・・」
後に第3次山科合戦と呼ばれる戦いは信長勢の大勝に終わった。

イメージ 11


16Turn(1577年)

イメージ 23一敗地にまみえた反織田軍勢であったが、京に対する執念を捨てることはなかった。
引き続いて京に乱入したのは、丹波路から京に進んだ吉川広家麾下の1個軍団である。奇しくも彼らが辿ったコースは、史実の本能寺の変において、明智光秀が辿ったコースに近かった。

吉川隊と信長隊の兵力はほぼ互角。戦闘カードもなし。どちらが先手を取るかで勝敗は大きく左右されるはずであったが、ここで先手を取ったのは吉川側であった。吉川麾下の猛攻によって瞬く間に兵力の半数を失った信長軍。ここで信長は「待伏せカード」を使って退勢の挽回を図ったが、時すでに遅し。兵力で優位に立った吉川勢が終始信長勢を圧倒し、京を巡る4度目の戦い(第4次山科合戦)は吉川勢の勝利に終わった。

この段階で勝利を諦めた信長方が投了。反織田側の勝利に終わった。

イメージ 12


感想

イメージ 25畿内の情勢はかなり苦しかった。特に序盤で鉄甲船が出たため、河内灘(大阪湾)の制海権を信長側に押さえられたのが大きかった。その結果三好の壊滅を早め、雑賀勢の活躍が阻害された感がある。宇喜多の裏切りにしても、カードの巡り合わせで阻止することができたが、下手をすれば危なかった所だ。制海権の重要性を痛感させられた次第である。

ただしその他の戦線では概ね良い感じだったと思う。信玄公の早期討死は避けることができた災厄だったが、それ以外では伊勢本願寺、浅井・朝倉、武田勢等が上杉、毛利の出陣段階で健在だったのが良かった思う。特に浅井・朝倉が健在なのが大きく、謙信公が琵琶湖から京に向かう際に、西側面の防衛を浅井・朝倉に任せられるのは大きい。後は謙信公が健在であれば良いのだが・・・。

このゲームをプレイするのは今回で5~6回目になるが、どちらかといえば織田方でプレイする機会が多く、反織田方でプレイする機会はあまりなかった。そういった意味では今回は新鮮な雰囲気で対戦することができ、個人的には満足している。プレイ中のミスが多かった店は反省すべき点で、このことは次回対戦時の資としたい。

P.S. この後立場を入れ替えてもう1戦プレイしてみたが、その時は織田側のチットと行軍ダイスが冴えまくり、第4Turnに朝倉の野戦軍が壊滅。浅井も壊滅するという事態になった。つくづくダイスとチット引きに左右されるゲームだと思う。

イメージ 1

世界の傑作機No.162 ヤコブレフYak-38"フォージャー"

文林堂

今回の"世傑"は、冷戦時代、米機動部隊を向こうに回して奮闘したYak-38"フォージャー"。冷戦時代を扱った仮想戦ゲームでは、海を舞台とするゲームでキエフ級空母と並んで「ラスボス」的な役割を担っていた「名機」である。しかし実際の所、本機の性能は冷戦時代から疑問視されており、「鳥なき里の蝙蝠」などと言われていた。
本書はYak-38の開発から運用、そして後継機であるYak-141"フリースタイル"まで技術的側面や運用面から詳しく追っている。本書で嬉しいのはYak-38の様々なカラー写真で、キエフ級空母の飛行甲板上や格納内での写真は一見の価値ありだ。
全般として読む所はやや少なく、また機体の運用史も地味な感は否めない。しかしこれは本書の罪というよりは、Yak-38自体の「つまらなさ」を反映しているだけかもしれない。

お奨め度★★★

イメージ 1

フラー制限戦争指導論

J.F.Cフラー 中村好寿訳 原書房

「戦争の目的は平和であり、勝利ではない」
これが本書の著者であるフラー氏の言わんとする所である。
筆者フラー氏は第1次世界大戦で英国陸軍において参謀勤務に従事し、初期の戦車戦術を指導した。その後リデルハートらと電撃戦の考え方を生み出した戦略論の大家である。
筆者の言う制限戦争は、相手国を徹底的に破壊するのではなく、相手国との交渉によって平和を目指す戦争指導である。筆者はその理想をフランス革命前の絶対君主時代に求めた。フランス革命は制限戦争を無制限戦争に変え、そして両大戦によってその傾向に拍車がかけられた。そのような変化をもたらした大きな要因がロシア革命とアメリカ合衆国の存在で、前者がその極端な共産主義思想によって戦争を野蛮化し、後者がその理想主義的な考え方によって戦争に絶対勝利の概念を持ち込んだ。特に米国の戦争指導は倫理的にも国益的にも愚劣であり、それが戦後におけるソ連の躍進を促したと筆者は批判する。
本書は1960年代に記された著作なので今から読み返すと情報や国際情勢的には古さが否めない。また歴史的な内容に関する部分が冗長である感は否めない。しかしその思想の斬新さで現時点でも価値ある著作である。
なお、筆者の言わんとする制限戦争が果たして我々が目指す戦争の目指すべき姿なのか、あるいは我々を害せんとする残忍な敵を利するだけなのか。その答えはまだ出ていないと考える。

お奨め度★★★

↑このページのトップヘ