もりつちの徒然なるままに

ウォーゲームの話や旅の話、山登り、B級グルメなどの記事を書いていきます。 自作のウォーゲームも取り扱っています。

2015年04月

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九州を旅行した際、立ち寄ったラーメン屋さんです。
小倉の駅からバスで10分ほど。神岳一丁目というバス停から歩いて3分ほどの場所にあります。
普通にラーメンを注文。
豚骨細麺という典型的な九州ラーメンでした。
味は「これぞ九州ラーメン」といった感じ。
特筆するほど旨いという訳ではないのですが、麺を食べた後スープもすすりたくなるような旨さでした。

お奨め度★★★

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「燃えよ姉川の戦い」(以下、姉燃え)は、元亀元年(1570年)7月30日に北近江の姉川付近で戦われた合戦を再現するシミュレーションゲームである。ゲームは典型的な合戦級で、1Turnは約30分、1Hexは100m、1ユニットは500人程度の部隊を表す。
システムは主導権を前に出した独特のものになっている。移動、戦闘、回復の順でゲームが進んでいくが、所謂プレイヤーターンの概念はなく、各フェイズを主導権を得た側が常に先に実施することになる。ZOCに入った場合は離脱できないというルールもあるので、非主導権側は接敵されたらそこまで。あとは戦うしかない。
戦闘は攻撃側の一方的な攻撃で、それが外れた場合のみ攻撃された側が反撃できる。また1度攻撃を受けたら攻撃権も失うので、大抵は主導権側の一方的な攻撃に終始する。そして主導権は、予想通り序盤は浅井・朝倉の独壇場だ。浅井・朝倉が主導権を失うまで、織田・徳川連合が耐えられるかが勝敗に分かれ目になるだろう。

今回、下名は織田・徳川連合を担当した。


1Turn

イメージ 8イメージ 9第1Turnは奇襲ルールによって織田方は動けず、徳川勢も移動力が2に制限される。対する浅井、朝倉は移動力5とフルパワー状態なので姉川を押し渡った浅井、朝倉勢が続々と織田、徳川勢に接敵する。
織田方の先鋒は坂井政尚。対する浅井は侍大将磯野員昌麾下の部隊が坂井政尚の右翼を突く。忽ち突き崩されていく坂井勢。なんせ浅井側の攻撃力は6/9(第1攻撃力/第2攻撃力)等と言う状態である(織田側の先鋒は3/8ぐらい。士気チェックに失敗した織田側が次々と混乱していく。
ちなみに攻撃については、2D6で第1攻撃力以下の目を出せば重損害で討ち取りチェック、第2攻撃力以下の目が出たら士気チェックである。つまり6/10ということは2D6で10以下で相手側に士気チェックを強要できるのだ。ちなみに織田側一般兵の士気値は5。さらに「横槍」ルールによって士気値-1になるケースが多い。すなわち織田方は士気チェックで2D6で4~5以下を出さない限り混乱する。織田方が突き崩されていくのは半ばお約束であり。とはいえ、これは酷いなぁ・・・・。

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2Turn

イメージ 10第2Turnも当然の如く浅井・朝倉が主導権を取る。坂井政尚を突き崩した磯野員昌らは、引続いて織田方の第2陣である池田恒興隊と接触する。浅井勢の突進力は相変わらずで、池田隊も浅井勢の突進を止めることができない。

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3Turn

イメージ 11浅野勢は2番手の池田恒興隊も撃破し、3番手木下秀吉隊に接触しつつあった。そんな中、混乱状態の坂井政尚隊が再び浅井勢の接触を許してしまう。強制撤退の際に除去チェックに失敗した坂井政尚は除去されてしまう。
他にも除去ユニットが3ユニットを数えた織田・徳川勢は、ここで恐怖の「裏崩れ1」チェックを強要されてしまう。混乱状態のユニットが次々と除去されていく。しかしこれはまだ序の口だった。

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4Turn

イメージ 12相変わらず主導権は浅井・朝倉である。このTurn、3番手の木下秀吉隊が奮戦し、浅井の猛攻をなんとか食い止めていた。先のTurnに浅井方の侍大将磯野員昌が混乱により後退してしまったことも影響している。
しかしこのTurn、討ち取りチェックで1ユニットが討ち取られてしまい、織田方に再び「裏崩れ1」が適用されてしまう。その時、混乱ユニットが次々と士気チェックに失敗。除去ユニットのVPが10点に達したため、恐怖の「裏崩れ2」が起こってしまった。「裏崩れ1」は混乱状態のユニットに士気チェックを強要されて失敗したら除去となるが、「裏崩れ2」になるとそれに加えて敵に隣接していない健在ユニットも士気チェックを強要される。失敗したら混乱状態だ。これによってモロにダメージを受けたのが、反撃の主力と期待していた森可成隊、丹波長秀隊、そして織田信長本隊が続々と混乱していく。元々士気の高い徳川隊はそれほどでもないが、士気値が極端に低く設定されている織田の諸隊は、一度裏崩れが起こると止めようがない。

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5Turn

イメージ 13決着がついたのはこのTurnである。混乱から回復した磯野員昌が再び最前線に立ち、織田の諸隊に襲い掛かる。木下秀吉隊が粉砕され、木下秀吉も行方不明に。打撃力を期待されている柴田勝家隊も浅野勢の猛攻にタジタジである。そうして起こった「裏崩れ1」。混乱していたユニットがポンポン吹き飛び、盤上が綺麗になっていく。そうして「裏崩れ2」の発生が決まった時点で下名の士気も崩壊していた。

「参りました」

姉川の合戦は、史実と異なり、浅井・朝倉の圧勝に終わった。

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感想

イメージ 14イメージ 15織田勢が弱すぎる。まともに戦ってはまず勝ち目がない。今回は初プレイだったのでよくわかっていなかったが、どうやら織田勢を前に出してはいけないようだ。雑魚で薄くスクリーンを張り、指揮官級は後方に下げて回復に徹する。どうやらそれがベストのように思える。無論、浅井・朝倉の主導権値が落ちてきたら、指揮官(特に柴田、森)を部隊の直接指揮にあてて攻撃を仕掛けていくことも必要であろう。序盤の浅井の猛攻を如何に耐えるかがポイントになりそうだ。

重要なルールについて勘違いがあった。裏崩れを引き起こすトリガーとなる除去ユニットは、戦闘フェイズ又は裏崩れフェイズで除去されたユニットのみ。潰走フェイズや回復フェイズで除去されたユニットはカウントされない、ということだ。つまり混乱状態で敵中に孤立したユニットや敵に捕まりそうなユニットはどんどん潰走させれば良い。仮に士気チェックに失敗して除去されたとしても、裏崩れのトリガーにならない。戦闘フェイズで除去されるよりは遥かにマシである。

本編ではあまり触れなかったが、徳川勢もあまり強くない。朝倉方が数で圧倒しているので、四方から攻撃を受けて「横槍」「横槍」「横槍」となる。GJ本誌で書いてあったが、自主混乱して朝倉との距離を離隔し、浅井の側面を突くのが良いかもしれない。初プレイで「自主混乱」は、勇気がいるので殆どできなかったが・・・。

いずれにしてもまともにプレイしない間に負けてしまったというのが実感。もう1度ぐらい対戦してみたい作品である。

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宇都宮に用事があった時に立ち寄りました。
駅西口側に餃子の店が固まっている一角です。
焼き餃子と水餃子の定食を注文しました。
焼き餃子の方は今ひとつの味でしたが、水餃子はまあ美味しかったです。
ボリューム的にもこの値段(税込\842)を考えればまあまあかな。

お奨め度★★★

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GJ#36号「真田軍紀」をプレイした。
このゲームは、1614~15年における大坂の陣をテーマとしたシミュレーションゲームである。
史実の大坂の陣は大阪城周辺の比較的狭い地域での戦いとなったが、本作は西は姫路城から東は尾張東部まで含んでおり、大坂方は史実と異なって畿内一円を舞台とした大規模機動戦闘を実施できる。そのあたり、歴史的ゲームというよりは、半仮想戦に近いゲームかもしれない。

今回、下名は西軍を担当した。

前回まで --> こちら

13Turn(11/13)

イメージ 8関ヶ原から美濃に入った真田幸村、後藤又兵衛らは、かつて墨俣の一夜城とも言われた八神城(2-1)を強襲する。まともな守備隊のいなかった八神城はあえなく陥落する。
畿内では西国からの東軍約8万が大坂城を囲んでいた。しかし頼みの浪人衆が皆出払っている西軍が、関東方の大軍に対抗できる筈もなかった。あえなく包囲される大坂城。あとは淀君と秀頼公の耐久力がいつまで持つかだが・・・。

その頃、京の二条城では大攻防戦が繰り広げられていた。塙団右衛門(3-2)以下約8千の西軍が、10万を超える東軍相手に大奮戦。徳川家康本隊に計10損害以上を与えた後、自らは一兵も残さずに壊滅した。

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14Turn(11/16)

美濃にまで進出していた真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親は、木曽川を越えて尾張に進出。名城イメージ 9として名高い犬山城を強襲していた。約4万の大軍による攻撃を受けていた。犬山城はあえなく陥落し、西軍は遂に尾張国内にまでその活動範囲を広げた。

畿内では、大坂を目の前にして徳川親子が茨木城(2-2)を攻撃していた。茨木城には京から撤退中で大坂城の目の前まで来ていた蒲田兼相(2-2)が入城していた。蒲田兼相の奮戦むなしく茨木城は陥落。蒲田宰相は討死してしまう。
堺では、新宮行朝(1-0)が東軍の攻撃を受けて戦死している。

15Turn(11/19)

イメージ 10尾張を席巻していた真田幸村らが戻ってきた。北近江の名城長浜城(3-3)を真田、毛利、後藤が強襲攻撃。これを陥落せしめていた。また別動隊の長宗我部盛親は、尾張、美濃、伊勢の三国境である高須城(2-2)を攻撃。これを一撃の元に陥落せしめていた。
浪人衆の策動に手を焼いた徳川軍は、遂に家康本隊及び秀忠隊を以て浪人衆を追った。琵琶湖西岸を北上した家康、秀忠隊が大溝城、朽木城を相次いで奪回していた。

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イメージ 11大坂城では、包囲判定で6の目を出してしまい、包囲レベルが0から1へとアップしてしまった。これにより今後毎Turn落城チェックを行い、1/6の確率で大坂城が降伏することとなる。
一体どうしたというのだ。
女官たちの部屋に砲弾が落ちてきて、淀君が「和議じゃ、和議じゃ」と叫んでいるとでもいうの・・・。
とにかく1の目を出さないようにするしかないが、ゲームはまだあと13Turnも残っている。

16Turn(11/22)

イメージ 12東軍主力の隙をついて西軍の後藤又兵衛、真田幸村、明石全登が逢坂山の線を越えて山科国に雪崩れ込んだ。慌てて引き換えす家康本隊。しかし後藤又兵衛の進撃は留まることを知らず、淀川沿いに南下。二条城(2-1)を急襲してこれを奪取した。

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イメージ 13しかし主力と分離して単独行動を取ったことが後藤又兵衛にとって命取りになった。琵琶湖西岸から強行軍で畿内に戻ってきた徳川家康本隊は、伊達政宗(3-2)、上杉景勝(2-2)らと共同で後藤又兵衛を襲った。後方から真田幸村。明石全登らが援護に向かおうとうるが、他の東軍部隊による自殺攻撃に阻まれて後藤又兵衛を援護に行けない。
結局後藤又兵衛隊約1万は、約6~7万の徳川隊による猛攻を受け壊滅。後藤又兵衛自身も壮烈な最期を遂げてしまう。

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その間、長宗我部盛親、毛利勝永は伊勢亀山城(3-3)を強襲し、これを落城せしめていた。

17Turn(11/25)

後藤又兵衛を失った浪人衆は、止む無く畿内を撤退。長宗我部、毛利らと合流すべく伊賀路を東へ進む。しかしその後方から東軍が追う。真田幸村、明石全登らは鈴鹿峠に布陣し、東軍の突破に備える。

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19Turn(12/1)

大坂城の包囲判定で"1"を出してしまった。大坂城落城。この時点で大阪冬の陣は関東方の勝利となった。

感想

負けてしまった。いや、負けたのは仕方がない。元々勝ち目のない戦いだったのだから。ただ華々しい合戦での勝利がなかったのが悔しい。同じ負けるにしても、家康公率いる大軍と決戦を繰り広げてから負けたかった。そういった意味では、第11Turnで瀬田の防衛線を放棄したのは失敗だったかもしれない。それよりも負けを覚悟でも奇跡を期待して家康公率いる東軍主力と対決すべきだったか・・・。
いずれにしても、今回はあまりに無計画過ぎた。次回はもう少し計画的に行動しないといけないと反省しきりである。

あと1度ぐらい西軍でチャレンジしてみたい作品ではある。

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GJ#36号「真田軍紀」をプレイした。
このゲームは、1614~15年における大坂の陣をテーマとしたシミュレーションゲームである。
史実の大坂の陣は大阪城周辺の比較的狭い地域での戦いとなったが、本作は西は姫路城から東は尾張東部まで含んでおり、大坂方は史実と異なって畿内一円を舞台とした大規模機動戦闘を実施できる。そのあたり、歴史的ゲームというよりは、半仮想戦に近いゲームかもしれない。

今回、下名は西軍を担当した。

1Turn(10/7)

イメージ 12序盤の西軍は、浪人衆を集めた打撃部隊を4個編成できる。真田幸村(5-6、戦闘力-行動力、以下同じ)、後藤又兵衛(4-5)、長宗我部盛親(4-4)、明石全登(4-5)のそれぞれが率いる野戦部隊だ。兵力はそれぞれ7500~10000名(3~4ユニット)からなる。彼らは3群に分かれて大坂城を進発。それぞれの攻略目標に迫った。
大和路に進んだ長宗我部隊は大和の国の入り口である龍田城(2-1 城の場合は強度と耐久力、以下同じ)を攻撃。これを占領していた。また淀川沿いを進んだ後藤隊と明石隊計2万弱は、片桐且元(0-0)が籠る茨木城(2-2)を囲む。圧倒的兵力の西軍の前に片桐且元は奮戦するも、最後は討死して果てた。

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2Turn(10/10)

イメージ 13淀川戦線から南下してきた後藤隊が長宗我部隊と合流。大和の要域郡山城(3-3)を包囲。強襲攻撃を仕掛ける。しかし郡山城を守る桑山一重(0-0)は奮戦して西軍の攻撃を寄せ付けない。西軍の損害が3戦力に達した時点で西軍は強襲攻撃を諦めた。この時点で西軍全体で被った損害は9戦力に達し、初期配置戦力の半数以上がキズものにされた形となる。

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3Turn(10/13)

イメージ 14このTurnに淀城(2-1)と伏見城(3-3)が落城する。西軍先鋒は遠く近江国の膳所にまで到達し、膳所城(4-6)を囲む。また別の一部隊は伊賀上野に達し、上野城(4-8)を囲んでいる。畿内では尼崎、高槻、二条、郡山、丹波亀山が西軍部隊に包囲された形になっている。


4Turn(10/16)

イメージ 15紀伊国から出撃し国境で策動している浅野長晟(1-0)を真田幸村が捉えた。オーバーランで損害を与えた後、秋山城(2-2)に籠った所で毛利勝永(3-4)隊と合流した真田隊がこれを包囲。強襲攻撃の末、これを落城せしめた。畿内では尼崎、高槻、丹波亀山が西軍の包囲攻撃に耐えかねていずれも開城している。。
二条、伊賀上野、膳所、郡山では包囲状態が続いている。
その頃、江戸を進発した徳川家康本隊約8万が、関ヶ原に姿を現した。

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5Turn(10/19)

イメージ 16伊賀上野と郡山が包囲攻撃の末落城した。伊賀上野は伊賀方面随一の巨城であり、その落城は同方面における西軍側の行動に大幅な自由度を与えた。また郡山では奮戦を続けていた桑山一直が壮烈な討死を遂げている。
その頃、徳川家康率いる東軍主力が南近江の愛知川西岸に到達。そこに柵を築いて膳所を囲む西軍主力約5万と対峙する。兵力では西軍を圧する東軍であったが、指揮能力や戦意では西軍が遥かに勝っている。そのために徳川本隊は自重し、西軍への攻撃を仕掛けようとはしていない。

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6Turn(10/22)

二条城が落城した。京は西軍の支配する所となった。

7Turn(10/25)

イメージ 17大坂城からは浪人衆以外に七手組と呼ばれる豊臣家固有の親衛隊が続々と出撃し、近江の戦線に到達しつつあった。膳所を囲む西軍の兵力が約7万まで強化された。この大兵力を以て西軍は膳所を強襲する。膳所を守る板倉勝重(1-0)の奮戦で西軍は8戦力を失ったが、膳所は落城。板倉勝重も壮烈な討死を遂げる。
膳所の陥落を見た家康本隊8万は、西軍の勢いに恐れをなして関ヶ原付近まで後退していった。

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8Turn(10/28)

膳所を落した西軍諸隊のうち、機動力を有する真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永らが計4万の兵を率いて琵琶湖西岸を北上する。琵琶湖中部西岸に位置する大溝城(2-2)、さらにその奥にある朽木城(2-1)を相次いで落城させていた。こうして琵琶湖西岸に拠点を得た西軍は、次期作戦に備える。

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9Turn(11/1)

イメージ 18膳所の陥落、琵琶湖西岸の制圧と勢いに乗る西軍。この勢いを見た淀君が遂に秀頼公の出撃を認めた。大坂城に翻る千成瓢箪。秀頼公は淀川北上。そのまま二条城に入り、関白就任を宣言する。狂喜する淀君。


10Turn(11/4)

イメージ 19江戸を発した徳川秀忠率いる約7万の大軍が関ヶ原に到着した。これに家康直率の約8万とその他の兵力を合すれば、畿内に展開する東軍兵力は約20万に達した。対する西軍は約10万。兵力比は2:1となったのである。
援軍を得た家康公の本隊は、再び南近江に進出。愛知川河岸に陣を敷く。
一方の西軍は琵琶湖攻めに任じていた真田幸村以下約4万が西軍本隊の合流。逢坂山の線で野戦築城を行い東軍の突破に備える。

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11Turn(11/7)

徳川家康、秀忠率いる決戦部隊が瀬田の東岸まで進んできた。その兵力は約15万。対する西軍も膳所に陣をしいて待ち構える。

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12Turn(11/10)

イメージ 20膳所に陣を敷いていた西軍が、突如として陣地を放棄した。そして秀頼公を含む西軍本隊約3万ははそのまま大坂城に帰還。真田幸村、後藤又兵衛、明石全登、毛利勝永、長宗我部盛親率いる約5万の別動隊は、琵琶湖西岸を北上し、先程占領した大溝城に布陣する。関東の大軍を背後から襲う構えだ。そして彼らの中でも機動力に富む真田幸村麾下の約1万人は、早くも関ヶ原の線まで進出していた。その進撃途中で長浜付近に上杉家の家老、直江兼継(2-4)麾下の約2千を捕捉、これを殲滅していた。「上杉にこの人あり」と言われた直江兼継のあまりにも惨めな最期であった。

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イメージ 21主力が去った膳所城には木村重成(3-2)率いる約1万強の七手組が入城する。膳所を狙う東軍に対して少しでも損害を強要する布陣である。しかしその膳所城は東軍主力の猛攻の前にあえなく落城していた。10万以上の大軍に攻めかけられたら、さしもの勇将木村重成でも抗すべくもない。木村重成は、同じく膳所に入城していた大野道犬(1-1)と共にあえない最期を遂げる。
また西から迫る東軍部隊約8万は、福島正守(1-0)らが守る尼崎城を強襲する。これを一撃の元に落城させていた。

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