もりつちの徒然なるままに

ウォーゲームの話や旅の話、山登り、B級グルメなどの記事を書いていきます。 自作のウォーゲームも取り扱っています。

2016年03月

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鹿児島市内に立ち寄った際、ラーメンを食べようと立ち寄ったのが「麺屋花一」。鹿児島市内中央から国道沿いに数キロ南下した場所にあるラーメン屋さんです。

鹿児島のラーメンと言えば、細麺の豚骨という感じがしますが、ここはなんと横浜で有名な家系。それもあまり過激な味ではなく、上品な味でした。素直に美味しいと思えるラーメンです。

お奨め度★★★

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東京、駒込の景勝地、六義園で夜桜を見に行きました。
まだ五分咲き程度の状況でしたが、それなりに綺麗でした。
やっぱり夜桜は良いですね。
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イメージ 8「信長最大の危機」について、今更説明する必要もないだろう。所謂信長包囲戦を扱ったシミュレーションゲームで、1570年から10数年に渡って繰り広げられた信長包囲戦を、1Turn半年、1ユニット約2千弱の兵員で再現する。
本作の基本的なシステムは、「フリードリヒ最大の危機」「戦略級関ヶ原」等でお馴染みのチットドリブンシステムで、行動可能なチットを引いた陣営がダイスを振り、この時のダイス(行軍ダイス)目に等しい数だけ作戦行動を行える。行軍ダイスにはいくつかの修正があり、例えば本作では京を支配している陣営(大抵は信長方)は+2の修正が適用される。

他にはカードによる調略やイベント、イニシアチブによる合戦システム等がある。現在の視点で見るとカードが多すぎるとか、調略が面倒だとかあるが、一方でこの野暮ったさが魅力であり、洗練され過ぎた感のある「フリードリヒ最大の危機」等に比べると根強いファンが多い。かくいう私もファンの一人である。

今回、「信長最大の危機」をVASSAL対戦することになった。下名は信長方を担当する。

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1Turn(1570年前半)

イメージ 9金ヶ崎の陣まで前進していた織田信長は、突如盟友浅井長政が裏切ったことを知る。このままでは敵中に孤立して壊滅してしまう。そう考えた信長公は全軍の約半数(1個軍団=8戦力)を率いて琵琶湖西岸を通って京に落ち延びた。残り1個軍団は朝倉勢1個軍団強(10戦力)の猛攻を受けて壊滅する。

しかし京に戻った信長公は直ちに反撃を開始する。伊勢長島で蜂起した一向一揆に対しては、柴田勝家率いる1個軍団の軍勢が長島城を包囲し、猛烈な攻撃を仕掛けていた。また南近江の山中で抵抗を続けている六角氏に対しては、信長公自らが1個軍団の兵を率いて蓑作城を強襲。これを一撃の元に陥落させ、六角氏を傘下に従えた。

そうこうしている間に畿内では足利義昭が不穏な動きを見せており、丹波亀山城では義昭の策謀によって守備隊が寝返ったりしていた。また畿内では三好勢が1個軍団弱(6戦力)の兵を率いて茨木城に来寇。城に籠る織田勢約4千を取り囲む。

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2Turn(1570年後半)

イメージ 10南近江平定を終えて一旦京に戻った信長公は休む間もなく1個軍団を率いて茨木へ出撃。三好勢を撃破して茨木を解放した。近江では滝川一益、羽柴秀吉が率いる1個軍団が浅井領北近江の佐和山城を奪取。さらに進んで横山に進攻。同地を守る浅井勢を包囲した。

浅井氏の危機に盟友である朝倉氏は援助部隊も出さず、ただひたすら越前に引きさがって守りを固める。これは一体どういうこと?。同盟する相手を間違えたか・・・、と悔やむ長政であったが、後の祭りであった。

伊勢長島の一向一揆もこのTurnに壊滅。織田軍が伊勢路一帯を平定した。

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3Turn(1571年前半)

イメージ 11長政の不吉な予感は的中した。横山城を調略戦で難なく陥落させた信長公は、織田軍主力を率いて浅井の本城である小谷城を囲んだ。その兵力は3個軍団弱の約4万人にも達した。対する浅井勢はわずかに6千弱に過ぎない。天下の名城小谷城を以ってしても、浅井の滅亡を防ぐのは難しかった。小谷城は落城。浅井長政も自刃して果てた。

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4Turn(1571年後半)

イメージ 12浅井を落した信長公は、休む間もなく朝倉領へ侵攻する。因縁の地、金ヶ崎へ1個軍団を率いて舞い戻った信長公は金ヶ崎城を守る朝倉勢を瞬殺。2年前の恨みを晴らした。

このTurn、初めて織田方のチットが1枚しか引かれなかった。これまでは毎Turn2枚ずつ織田チットが引かれている計算になる。ちなみに織田方チットを引く確率は、第1Turnは平均1.5枚、第2Turn以降は原則平均1枚である。これまでの織田方がいかに行軍チットに恵まれていたかがわかろうというものだ。

5Turn(1572年前半)

イメージ 13信長公率いる本隊は、越前奥深くへ侵攻していく。このTurn、越前府中を囲んだが、これを落城させるには至らなかった。また柴田勝家、荒木村重が率いる1個軍団は伊賀上野に進攻。在地の忍者たちと激戦を交えている。

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6Turn(1572年後半)

イメージ 14「甲斐の虎」武田信玄が動いた。信玄公自らが率いる約2万の大軍が駿府を発して東海道を西上。掛川を囲んだのである。他にも山県昌景率いる約2千が飯田より伊那路を南下。北から遠江に迫っていたし、木曽福島には馬場信春がやはり約2千の兵を率いて木曽路から美濃を伺っていた。武田勢の総兵力は約2万5千強。
対する織田・徳川方は、浜松に徳川家康率いる半個軍団約8千、岡崎に約4千弱で、総兵力は1万1千~2千程度に過ぎない。他に美濃の岩村に織田勢約4千がいたが、それを合わせても織田・徳川勢の劣勢は明らかである。
しかも相手は、あの上杉謙信でさえ手を焼いたほどの戦巧者である武田信玄。量の面でも質の面でも織田・徳川の劣勢は明らかだ。

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こうなっては浜松の家康公としては野外戦を避け、城に籠って援軍を待つほかない。幸い浜松城は天下の名城である。武田勢2万と言えども、そう易々とは落ちる筈はなかった。

しかしである。掛川を落した武田勢は、そのまま浜松へ突進してきたのである。浜松を守る徳川勢の守備兵力を見ると、さすがの信玄公でも強襲攻撃は躊躇う筈であった。
ところが・・・。
その信玄公。8千の兵が守る浜松城へまさかの強襲攻撃を仕掛けてきたのである。その兵力は約2万。古来城攻めは最低3倍以上の兵力が必要とされており、この程度の攻撃で浜松が落ちる筈はなかった。そして確かに落ちなかった。
しかしである。
1度では落ちなくても2度、3度繰り返せば城の守りは薄くなる。事実今回の強襲で徳川が失った兵力は約2千、対する武田勢の損害は約6千。損失比で言えば徳川側の大勝利だが、包囲されて補充の道がない徳川側が次第にジリ貧になっていくのに対し、補充のアテがある武田側は損害を回復していける。
そう。これはまさに先に長島で織田側が用いた戦術の裏返しである。包囲されている側は、包囲を解かない限り、遅かれ早かれ攻囲軍に対して城を明け渡すことになるのだ。

援軍。援軍を送るしかない。しかし織田側の援軍は、遠く越前に陣を敷く織田信長公率いる1個軍団。伊賀上野の平定戦をようやく終えてこれから転進しようとする柴田・荒木の1個軍団。そして急を聞いて畿内から取って返してきた羽柴秀吉麾下の1個軍団。この3つしかない。しかもこのいずれも遠江からは遠く、知らせを受けて駆けつけても、間にあわなくなる恐れが多分にあった。

織田家はこの戦役最大の危機を迎えたのである。

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台南海軍航空隊【ニューギニア戦線篇】: モレスビー街道に消えた勇者を追って

ルーカ ルファート/マイケル・ジョン クラーリングボールド 平田光夫訳

これまで零戦や海軍航空隊を扱った著作は何冊も出版されてきた。そのため近年では所謂「零戦神話」は次第に色褪せ、ガダルカナルやミッドウェーでも決して圧勝していた訳ではないことが次第に知られてきた。そんな中、今なお零戦伝説が残っている数少ない戦場が、1941~42年におけるフィリピン、蘭印方面と、同じく42年におけるニューギニア方面での戦いである。これらの方面では連合軍側の資料が乏しく、従って零戦の実際の戦果について検証するのが難しかった。
本書は、その中で後者、すなわちニューギニア方面における零戦の戦いを追った著作である。欧米人による著作なので、当然ながら連合軍側の事情に詳しい。また日本側の事情についても良く調べてあり、双方の視点から見たニューギニア上空の戦いを見事に描き出している。本書によって明らかになったニューギニア上空の戦い。果たして勝利を収めているのは日本側だったのか、連合軍側だったのか。果たしてエララコブラやキティホークは零戦にとって真の意味で手強い敵であったのか。あるいは七面鳥に過ぎなかったのか。それは本書を読んでのお楽しみである。
本書によってニューギニア上空の戦いが明らかになった。既にソロモン方面での戦いや空母同士の戦いについては、先行研究によって零戦神話の実情はほぼ明らかにされている。残るは開戦劈頭のフィリピン戦と蘭印戦。これらの戦いで零戦神話の実情は如何に・・・。
あとは値段がもう少し安ければ・・・

お奨め度★★★★

前回、鹿屋航空基地史料館を紹介しましたが、他にもいくつか鹿屋で見て回った場所がありました。

串良平和公園

鹿屋中心部から10kmほどの場所にある公園です。かつて鹿屋地区には3つの海軍航空基地があったそうで、鹿屋、笠ノ原、串良の3つです。そのうち串良からは363名の特攻隊員と202名の一般攻撃隊が飛び立ち、帰らなかったそうです。
この串良平和公園は、そのような過去を忘れないようにするために建立されたものです。

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鹿屋交通公園

かつて鹿屋には大隅線という鉄道線は走っていました。志布志を起点として、鹿屋、垂水を経由して国分までです。今ではその駅趾に鉄道公園が整備され、旧式のディーゼル車1両が展示されていました。

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