
敷島隊の5人 - 海軍大尉関行男の生涯

森史朗 文藝春秋
本書は最初の特攻隊として知られている敷島隊の指揮官、関行男大尉とその列機である谷暢夫、中野盤雄、永峯肇、大黒繁男の生涯とその特攻攻撃の全貌を詳細に追った著作である。上下2巻で描かれている上巻では、関らの生い立ちや海軍に入った後の人生を詳しく追っている。そこで描かれている海軍の生活は、決して甘美なものではなかった。海軍兵学校では生徒間の私的制裁が吹き荒れ、予科練では教官による暴力制裁(いわゆるバッター)を受ける。これらの「非行」に対して彼らがどのように感じたかは本書を読んでいただくとして、このような蛮行が旧軍に対する日本国民のイメージを決定的に悪いものにした点は十分に吟味されなければならないだろう。また上巻では関が体験した「恋」についてもページを割いている。横須賀の芸者との悲恋、そして鎌倉に住む令嬢との結婚といったエピソードは、「軍神」と言われた関行男が実際には今の若者と何ら変わらない喜怒哀楽を持った「普通の」青年であったことを伺わせる。下巻では戦地に移った関らの行動を追うと共に、海軍が特攻攻撃に傾斜していく様が描かれている。大西瀧治郎のイニシアティブで始められたとされる航空特攻作戦。しかし関らが出撃する遥か以前から特攻攻撃は準備されていた。回天や桜花といった特攻兵器は関らの出撃前から着々と準備が進められており、たまたま関らの航空特攻がこれらの兵器の使用よりも「先に」行われたに過ぎない。特攻の推進に大西瀧治郎が重要な役割を果たしたことは 事実としても、彼の独断によるとか、あるいは「下から自発的に行われたとか」する説については、(そういった側面が皆無ではなかったにしても)首肯できない。むしろ海軍の意思として特攻作戦推進があり、そのレールに乗った形で大西の決断や関の出撃があった。
また「志願制が前提」とされる特攻攻撃についても、大いなる欺瞞がある。小説「永遠のゼロ」でも描かれていたが、志願とは名ばかりで、実質的には強制に近い(事実上の強制)ものがあったことは本書を読めば明らかである。第一、関自身の出撃についても、関が「志願」した訳ではなく、関に「志願」を促したのである(今風に言えば「パワハラ」的)。旧海軍出身者の著作はその辺りを曖昧にして自身の責任を逃れているが、特攻が事実上の強制であり、多くの若者が自殺を強要されたことは旧軍の汚点と言って良いだろう。本書の言葉を借りよう。
「人間と単に一個の爆弾としてしか見ない「全軍特攻」からは、生み出されるものは何もない。そこにあるのはただ精神の荒廃のみである」
本書を読んで一番感じたことは、「精強な軍隊の害悪」である。軍隊とは国家を他国の侵略から守り、自国の国益を実現するための組織である。目的を達成する過程で他国の軍隊と争うことは必然的に予想されるので、精強な方が望ましい。しかし軍隊の精強さとはあくまでも手段であって目的ではない。軍隊の精強さを目的化した所に旧軍の失敗があった。精強な軍隊を作るためには私的制裁や過酷な罰直が必要であったという考え方もあるが、それらが国民感情に抜きがたい「反軍思想」を植え付けたのは、国益から考えるとマイナスの面の方が大きかった。また軍隊の精強さ(あるいは軍隊の存在そのもの)が自己目的化してしまったために、国益を無視して他国に戦火を広げ(関東軍の暴走)、挙句の果ての特攻である。このような旧軍の失敗を顧みた時、日本型組織に根強く生き残る帰属意識(所謂「愛社精神」)について、我々はもう少し疑ってみても良いのではないだろうか。
お奨め度★★★★★
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