もりつちの徒然なるままに

ウォーゲームの話や旅の話、山登り、B級グルメなどの記事を書いていきます。 自作のウォーゲームも取り扱っています。

カテゴリ:戦史 > 7年戦争

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山科会における「フリードリヒ最大の危機」2連戦の第2戦目。
先程はプロイセン軍を担当して大敗した。 --> 詳しくはこちら

2回目となる今回は再びプロイセン軍を担当する。

前回までの展開-->こちら

1759年

2月

「フリードリヒの大返し」。フリードリヒとザイドリッツが2個軍団を率いてライン戦線からシレジアに戻ってきた。オーデル川沿いのグウォグフ要塞を囲み、一撃の元に陥落させていた。

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イメージ 15またバルト海沿岸には、グランビー将軍(★2)率いる英バルト海遠征軍4戦力がステッテン、ゴルベルグを超えてポーランド国境まで進出。プロイセン本土を奪回した。

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プロイセン主力が東へ去ったライン川戦線では、フランス軍が反撃に転じていた。リシュリュー将軍(★★1)率いる1.5個軍団(11戦力)がマインツ要塞を囲んだ。

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4月

両軍とも行軍ダイスが振るわず大きな動きはなし。フリードリヒ率いるプロイセン軍がポーランド領内に進入。北からブレスラウを伺う。

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8月

イメージ 14イメージ 16プロイセン軍が動いた。フリードリヒ率いる3個軍団(25戦力)がブレスラウに襲いかかった。ブレスラウにはフェレンツ2世(★2)らが率いるオーストリア・ロシア各1個軍団(15戦力)が待ち構える。両軍とも戦術を駆使して対峙したが、兵力に勝るプロイセン軍が勝利を収めた。大打撃を被ったオーストリア・ロシア連合軍はシュバイドニッツに向けて後退していった。ブレスラウ要塞に籠城するロシア軍2戦力に対してフリードリヒは猛攻を仕掛けるが、これを陥落させるには至らなかった。

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10月

イメージ 17ブレスラウの陥落によりグウォグフに進出していたオーストリア軍1個軍団(8戦力)が連絡線遮断となる。プロイセンにとってはチャンスである。しかし小癪なロシア軍がフリードリヒ不在を突いてポーランドのポーゼンを占領。ブレスラウを囲むプロイセン軍も連絡線遮断となる。
やばい。
窮地のフリードリヒはブレスラウの攻略とグウォグフのオーストリア軍の二面作戦でこの危機を乗り切ろうとする。いずれかが成功すればブレスラウへの連絡が回復する。可能性としてはグウォグフ撃破の方が有利であるので、そちらが本命である。
イメージ 18レーワルト将軍(★1)がプロイセン本国でかき集めた1個軍団(8戦力)を率いてグウォグフに出陣。さらにブレスラウからはフリードリヒ自らが半個軍団(4戦力)を率いてグウォグフに出陣する。グウォグフのオーストリア軍を指揮するブラウン将軍(★★2)が戦術能力に優れた名将なので、レーワルトだけでは必勝の戦策として不安があったからだ。
戦闘の結果プロイセン軍の勝利。退路を断たれたオーストリア軍は全滅した。ブラウン将軍は「脱出」カードで辛くも生還する。
時を同じくしてブレスラウも陥落。フリードリヒはその「最大の危機」を乗り切った。

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休む間もなくフリードリヒはザイドリッツ将軍と共に2個軍団を率いてバルト海前線に出撃。コルベルグにまで進出してきたロシア軍を撃破する。フリードリヒ不在の隙を突いてダウン伯(★★2)率いるオーストリア軍2個軍団が再びブレスラウを囲むが、ブレスラウはオーストリア軍の攻囲攻撃を持ちこたえた。

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そして冬が来る。

1760年

2月

年が明けてフリードリヒはブレスラウに転戦。ブレスラウを囲むオーストリア軍と対峙する。兵力的にはほぼ互角であったが、冬季損耗によって兵力の半数近くが損耗しているオーストリア軍にとって、フリードリヒに対抗する術はなかった。オーストリア軍は後退していく。

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4月

イメージ 20シレジアに遠征してきた英・ハノーヴァー軍とプロイセン軍のワンツーパンチ作戦でシレジアを攻める。
まずサックヴィル将軍(★2)率いる1個軍団(6戦力)がシュバイトニッツ要塞を攻めてこれを囲んだ。さらにフリードリヒ自らが率いる1個軍団が、その先のグラツ要塞でオーストリア残存兵力を捕捉した。またもや大損害を被ったオーストリア野戦部隊は、その残存部隊がオミュレッツに向けて後退していく。
結局グラツ要塞はこのTurnに陥落した。

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6月

フリードリヒ率いる1個軍団がオーデル川上流のオミュレッツを攻撃する。野戦軍の過半を失ったオーストリア軍にとってフリードリヒに対抗する術はなかった。オミュレッツは陥落。シレジアからモラビア北部一帯はプロイセンの支配する所となった。

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イメージ 19連合軍はオーストリア軍への圧力を減らすため、ロシア軍がバルト海沿岸に出撃する。1.5個軍団(12戦力)の大軍だが、人材難なので指揮官は(★1)が2人と苦しい状況。コルベルグでロシア軍を迎え撃ったのは、プロイセンの名将ザイドリッツ、シュヴェーリンが率いる計8戦力。兵力的にはプロイセン軍が不利であったが、防御側であること、指揮能力の優位、さらには「斜行戦術」効果があってプロイセン軍の大勝利。壊滅的な打撃を被ったロシア軍は後退していくしかなかった。

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オーストリア、ロシア両軍の主力が撃破された段階で勝利を諦めた反プロイセン側が投了。ここでゲームは終了となった。個人的には反プロイセン側にまだまだチャンスがあるようにも思うが、主要国3つのうち2つが潰されたのは痛いことは確かだろう。

感想

取り敢えず雪辱出来て良かった。ここまでのプレイ時間は約4時間。全45Turn中残り21Turnまでプレイできたので、このペースで行けば全ターンでも7~8時間ぐらいでプレイできそうである。今までの経験でもそのぐらいのプレイ時間が妥当だと思われる。

「信長最大の危機」に比べるとイベントカードの影響が小さく、カードの枚数が少ない分プレイしやすい。ルールもシンプルなのでその場で説明してすぐにプレイできる。行軍チットと行軍ダイスによってゲームが荒れる可能性もあるが、全般的には「荒れにくい」システム(例えば敵支配スペースに進入したら、その手番ではそれ以上前進できない等)になっているので、いきなりの初心者でも安心してプレイできる。

難点といえば、ルールの一部に解釈が曖昧な点があることだろう。その点については近々Must Attack等を利用して明確化を進めていきたい。

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山科会における「フリードリヒ最大の危機」2連戦の第2戦目。
先程はプロイセン軍を担当して大敗した。 --> 詳しくはこちら

2回目となる今回は再びプロイセン軍を担当する。

1756年

8-10月

イメージ 15前回とは打って変わって序盤のプロイセン軍は出足が鈍かった。フリードリヒ(★★2)率いる1個軍団(8戦力)がトルガウ要塞を攻め、ベフェールン将軍(★1)率いる1個軍団(8戦力)がライプチヒ要塞を攻める。10月終了までに両方とも陥落したが、その先、ドレスデン要塞まで進むことはできなかった。オーストリア軍はプロイセン軍のもたつきを見てドレスデン要塞に増援部隊を送り守りを固める。

東プロイセンからはケーニヒスブルクからはレーワルト将軍(★1)率いる1個軍団(6戦力)がダンツィヒ要塞を攻めるも、攻めきれずに冬を前にして後退を余儀なくされた。

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1757年

2月

イメージ 14まずドレスデンだが、フリードリヒ自らが2個軍団(16戦力)を率いて要塞を囲んだ。フリードリヒの猛攻によってドレスデンは陥落。ようやくプロイセンはザクセンを制圧した。時を同じくしてダンツィヒ要塞も陥落。東プロイセンとプロイセン本国の連絡線を確保した。

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4月

フランス軍が動いた。Contades将軍(★★1)率いる1個軍団(8戦力)がライン河を渡ってウェストファリアに進出。ミンデン要塞を無血占領した。

6月

フランス軍の動きに対してプロイセン軍の反応は早かった。シュヴェーリン将軍(★2)率いる半個軍団(4戦力)がウェストファリアに向けて出撃。ミンデン要塞を奪回した。

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フリードリヒ率いる1個軍団(8戦力)はポーランドへ向けて出撃。ポーゼンを通過してヴィスラ河に向けて進撃。トルン要塞を囲んでこれを占領した。この結果西部ポーランド全域がプロイセンの支配下となった。

イメージ 16その東方ではロシアが動いた。ソルティコフ将軍(★★2)率いる2個軍団がケーニヒスブルクに侵攻してきた。ケーニヒスブルを守るプロイセン軍主力はたまらず後退。残った要塞守備隊がケーニヒスブルクを守る。

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8月

オーストリア軍が動いた。計2個軍団がシレジアのグラツ要塞とシュバイトニッツ要塞を攻める。シュバイトニッツ要塞は陥落。しかしグラツ要塞は持ちこたえた。

フリードリヒ自らが率いる1個軍団(8戦力)が上記オーストリア軍の攻勢に対応する形でシュバイトニッツ要塞を攻めた。シュバイトニッツ要塞を囲むオーストリア軍はたまらず後退。フリードリヒ軍はシュバイトニッツ要塞を囲んだ。

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この時は気付かなかったが、このオーストリア軍の後退はルール違反であった。ルール8.22(4)1によると、敵支配下のスペースには後退できないとなっている。オーストリア軍が後退先としたグラツ要塞は包囲下にあるとはいえプロイセン軍が残っているのでプロイセン軍の支配スペースである。従ってグラツ要塞への後退は禁止である。


一方ロシア軍はケーニヒスブルクを攻撃。これを陥落させていた。

10月

何もないまま冬に突入した。その結果シュバイトニッツ要塞を囲むフリードリヒ麾下の1個軍団(8戦力)とグラツ要塞を囲むオーストリア軍2個軍団(16戦力)は冬季損耗の対象となる。

12月

イメージ 17冬季損耗チェック。フリードリヒ側は幸い1戦力の損耗で済んだが、グラツ要塞を囲んだまま冬を迎えたオーストリア軍2個軍団は、実に戦力の半数にあたる8戦力の消耗を出してしまう。
またこの冬、プロイセン軍屈指の名将ザイドリッツ将軍(★3)が登場した。さあ、反撃のための役者は揃ったぞ。

1758年

2月

イメージ 18シュヴェーリン将軍(★2)率いる1.5個軍団(11戦力)がユトランド半島のスウェーデン軍要塞ストラスンを攻めた。ストラスンにはスウェーデン軍のハミルトン将軍(★1)が半個軍団(4戦力)を率いて布陣していたが、圧倒的な兵力差のプロイセン軍を前に敵うはずもなかった。海を渡ってスウェーデン本国に後退しようとする彼らだったが、その後退時に多大な損害を被ってしまう。ストラスン要塞にはスウェーデン軍1戦力が篭城したが、プロイセン軍の猛攻を受けて陥落する。

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シレジアではオーストリア軍が攻勢を再開し、オミュレッツからオーデル川沿いに北上してナイゼ要塞を攻めた。ナイゼ要塞は陥落する。東からはロシア軍はケーニヒスブルクから出撃し、ダンツィヒを攻略していた。

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イメージ 14そんなこんなで四方八方から敵を迎えて危機に陥ったフリードリヒが選んだ敵は・・・、フランス軍であった。
先ほどから包囲中のシュバイトニッツ要塞を陥落させたフリードリヒ大王は野戦兵力を再編成して西へ向かう。フリードリヒ自らが率いる1個軍団(8戦力)の他、ザイドリッツ将軍率いる1個軍団(8戦力)も合流。計2個軍団で西へ向かう。
イメージ 19カッセルでデステル公爵(★★1)を率いるフランス軍1個軍団(8戦力)を捕捉したプロイセン軍。兵力に劣るフランス軍は合戦を避けて後退を図るが、奇襲攻撃や騎兵の活用で退路を断たれたフランス軍は窮地に陥った。プロイセン軍得意の斜行戦術が炸裂。フランス軍は大損害を被り、デステル公爵以下わずかな兵力がヘッセンに向けて後退し得たのみであった。プロイセン軍は損害ゼロ。プロイセン側の圧倒的な勝利であった。

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4月

イメージ 14先にフランス軍を撃破したプロイセン軍。ザイドリッツ将軍麾下の1個軍団(8戦力)がカッセルに残って連絡線を確保する一方、フリードリヒ自らが率いる8戦力がイングランド・ハノーバー軍と共同で敗走したフランス軍を追う。フランス軍を支援すべくルトヴィスキ将軍率いる帝国諸侯2戦力が出撃してきたが、フリードリヒ軍はそれを撃破。デステル公爵とルトヴィスキ将軍は僅かな供回りと共にマインツ要塞へ落ち延びていった。

その間、東方ではロシア軍が行動を継続。1個軍団がポーランド内陸部へ、2個軍団がバルト海沿いに進撃する。内陸部のトルン、海岸のStlopが陥落する。

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6月

ロシア軍はバルト海沿岸を西に進み、コルベルグ要塞を囲んだ。一気に陥落させるべく攻勢を仕掛けたが、プロイセン軍は奮戦してこれを撃退。その後「ブランデンブルクの奇跡」カードでロシア軍を退けた。

イメージ 20ライン川地区では、サックヴィル将軍(★2)率いるイングランド・ハノーヴァー軍6戦力がマインツを占領。フランス、帝国諸候軍は追撃を避けてライン川上流部に下がっていく。

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8月

ロシア軍は再び動いた。バルト海沿岸を進む2個軍団(16戦力)がコルベルグ要塞を囲み、一撃のもとに陥落させた。

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10月

オーストリア軍も動いた。ブレスラウ、ドレスデン、シュバイドニッツの3ヶ所に攻勢を仕掛けてきた。プロイセン軍も直ちに反撃。シュヴェーリン将軍麾下の1個軍団がドレスデンに急行する。戦術の優位を生かしたプロイセン軍はオーストリア軍を撃破し、ドレスデンを解囲した。
しかしその一方でシュバイドニッツが陥落。さらに要域ブレスラウも陥落してしまう。これは痛かった。

ロシア軍は西に進んでステッテン要塞を囲んだ。遂にプロイセン本土の核心部に来寇したロシア軍。ステッテン要塞ではフィンク将軍(★1)率いる2戦力が籠城して持ちこたえる。そして再び「ブランデンブルクの奇跡」が起こった。ロシア軍はケーニヒスブルクに向けて下がっていく。

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最近マイブームになっている「フリードリヒ最大の危機」。
山科会に参加した際、2回連続でプレイしました。
以下はその記録です。

第1回戦では下名はプロイセン陣営を担当しました。

1756年

8月

イメージ 14プロイセン軍にとって序盤の課題は、ザクセン地方の制圧とダンツィヒ回廊の打通、そして可能ならユトランド半島からのスウェーデン軍排除である。特に重要なのはザクセン地方の制圧で、ライピチヒ、ドレスデンという二大策源要塞を手中に収めて国力の増大を図ると伴に、ベルリン、ステッテン、マグデブルグといったプロイセンの心臓部に対する緩衝地帯を確保したい。
ダンツィヒ回廊については、ケーニヒスブルグはいずれロシア軍の猛攻を受ける公算大なので、その際に安全な後退路を確保しておく必要がある。
前2者に比べるとスウェーデン軍の排除はやや優先度が落ちる。しかしスウェーデン軍を大陸から締め出し、スカゲラク海峡の向こう側に追いやることは、プロイセン北部の安全を確保する上で重要になってくる。

今回は攻城戦や行軍ダイスに恵まれた甲斐もあり、上記3つについてほぼ全面的な成功を収めた。幸先の良いスタートである。

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10月

イメージ 15早くも初期の目的を達したプロイセン軍は、オーストリア軍が態勢の整わない間に戦果拡大を期することになった。フリードリヒ(★★3)自らが率いる1個軍(8戦力)がドレスデンを南下。プラハに陣取るオーストリア軍ブラウン将軍(★★2)に対して野戦を仕掛けた。兵力、指揮能力、そして戦術(カード)のいずれもで優れたプロイセン軍は得意の斜行戦術でプオーストリア軍を圧倒。これを完全に撃滅し、ブラウン将軍も捕虜となってしまった。いきなり最優秀の将軍を失ってショックの色を隠せないオーストリア軍だったのか・・・?
ただしプラハ要塞に籠るオーストリア軍の撃破には失敗。プラハの前面でフリードリヒ軍は冬を迎えることとなった。

オーストリア軍の反撃は、シレジア地方で行われた。オミュミッツとウィーンから計2個軍団(16戦力)が進発。グランツとナイゼのプロイセン軍要塞に襲いかかったのである。オーストリア軍の猛攻によりグランツは陥落。しかしナイゼ要塞は持ちこたえ、攻囲中のオーストリア軍はそのまま冬を迎えることとなった。

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1757年

2-4月

年が明けてフランスが参戦した。フランス軍はライン川沿いにゆっくりと北上を開始する。ただその歩みは遅い。

6-8月

一方のプロイセン軍はプラハにフリードリヒ大王自らが率いる2個軍団(16戦力)を集結させた。大兵力を集中した攻撃の前にプラハは陥落した。

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10月

イメージ 14イメージ 17今まで動かなかったオーストリア軍が漸く動き始めた。ナイゼ要塞に対する攻撃を継続すると共に、グライゼ要塞を攻め落とした1個軍が北上。シュバイトニッツ要塞に攻めかかってきたのである。それに対してフリードリヒの反応は早かった。プラハ戦での消耗を回復する間もなく自ら健在な兵力を集めて1個軍団(8戦力)を編成。シュバイドニッツでピッコロミニ将軍(★1)率いるオーストリア軍と対峙したのである。兵力はほぼ互角。地の利を得たオーストリア軍が有利なはずだったが、フリードリヒの戦術と野戦能力が不利な状況を覆した。オーストリア軍はシュバイトニッツの攻囲を解いて退却していく。

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一方東からはロシア軍が足音を響かせて前進してきた。Totleben将軍(★2)率いる3個軍団(24戦力)である。圧倒的兵力のロシア軍を前にしてケーニヒスブルクを守るプロイセン軍1個軍(8戦力)では如何ともし難かった。プロイセン軍は後退。ロシア軍はケーニヒスブルクを包囲したが、これを落とすには至らなかった。

12月

冬である。ケーニヒスブルクを包囲するロシア軍は、冬営による消耗で9戦力をステップロスした。一方、イーガーを包囲するフリードリヒ軍も4戦力が消耗する。

1758年

2月

シレジア地方ではオーストリア軍が再び大攻勢に転じてきた。ラウドン将軍(★2)率いる2個軍団(16戦力)がシュバイトニッツ要塞を攻めたのである。プロイセン軍主力は不在であったためシュバイトニッツ要塞は陥落する。

4月

ケーニヒスブルクを囲んだロシア軍が西へ向けて前進を開始。ポーランドのダンツィヒを囲んだ。圧倒的な兵力のロシア軍を前にダンツィヒ要塞はあえなく陥落する。

イメージ 16オーストリア軍がさらなる攻勢に出た。要域プラハに攻めかかってきたのである。ラウドン将軍率いる2個軍団(16戦力)がエルベ川沿いに西進。プラハ要塞を囲んだ。オーストリア軍の包囲攻撃は猛烈を極め、プラハ要塞は激戦の末陥落する。

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イメージ 14好機到来。プラハに集結したオーストリア軍2個軍団を撃破すべく、プロイセン軍が動いた。フリードリヒ自らが率いる2個軍団(16戦力)である。兵力的には互角だが、指揮能力と戦術に勝るプロイセン軍が有利と判断したのだ。
しかし・・・。
イメージ 16ラウドン将軍率いるオーストリア軍は地形を使った巧妙な防御戦術を展開。無敵のプロイセン軍を翻弄した。プロイセン軍もフリードリヒ自らが陣頭に立って鼓舞。さらに得意の斜行戦術でオーストリア軍撃破を狙う。しかしなんと斜行戦術が完全なスカ。8個振ったダイスが全て「2以下」で命中ゼロとなってしまう。
「ゼロは何倍してもゼロ」
結局プロイセン軍はプラハ会戦で大敗北を喫し、事実上2個軍団が戦闘力を失ってしまう。

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ダイス8個振って全部2以下なんて・・・

6月

西部戦線ではフランス軍が前進。ウェストファリアのミンデン要塞が無血開城する。

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8-10月

プロイセン軍はオーストリア軍の追撃をかわしてプロイセン国内に後退。国内で戦力の再編成に努める。その甲斐もあってある程度兵力を回復させることに成功。およそ3個軍団の決戦兵力を整備した。

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1759年

2月

イメージ 18ロシア軍が動いた。既にポーランド国内を席巻しつつあったロシア軍は、国境線を突破してプロイセン領内に雪崩込んだ。バルト海沿いにはアプラクシン将軍(★★1)率いる1個軍団(8戦力)がコルベルグ要塞を囲む。さらにオーデル川沿いに進んだRumyantsev将軍(★1)率いる1個軍団(8戦力)はキュストリン要塞を囲んだ。地名からしてもいよいよ「末期戦」的な様相を見せるフリードリヒなのであった。

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4月

イメージ 14プロイセン軍が反撃に転じた。2正面から進むロシア軍に対し、フリードリヒ自ら率いる2個軍団(16戦力)が迎撃に向かう。まずはバルト海沿いのコルベルグに進んだプロイセン軍は、同地のロシア軍を撃破し、コルベルグ要塞を解囲した。まずは1勝。

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6月

しかしキュストリンを放置しコルベルグに向かったのは、フリードリヒ痛恨のミスであった。キュストリンを囲むロシア軍は、包囲をそのままにして半個軍団がステッテン要塞に進出。同地を囲んだのである。この結果、コルベルグに進出していたフリードリヒ軍は背後を断たれて連絡戦遮断の危機を迎えた。

さらにオーストリア軍がロシア軍を跳躍して躍進。一気にベルリンを陥れたのである。このTurn終了時にステッテン、ベルリンの両地が陥落。プロイセン陣営の保有する策源地は8個となり、反プロイセン軍の敗北が決定した。

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感想

まず最終Turnのミスは痛かった。コルベルグではなくキュストリンを優先すべきであった。感覚的にロシア軍主力がバルト海沿いに展開していたので、本国直撃の脅威を感じたのだが、戦略を感覚に委ねるのは危険であった。反撃する場合も常に連絡線に注意を払わないと殺られること痛感した。

プラハ会戦の敗北も痛かった。こちらは出目に恵まれなかったことも確かにあったが、相手の戦術カードにはもっと注意を払うべきだった。むしろ守りに徹して相手に攻めさせた方が良かったかもしれない。無論戦術カードで勝てる手札が揃っていることが必要だが・・・。

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戦略級関ヶ原を終了した時、まだ2時過ぎだった。そこで新作「フリードリヒ最大の危機」をプレイすることにした。下名は反プロイセン軍を担当する。

1756年8月

最初のTurnはプロイセン軍のみが行動できる。プロイセン軍は、マグデブルグより出撃し、フリードリヒ(★★3)率いる1個軍団(8戦力)がザクセンのトルガウ要塞を攻撃。ベフェールン将軍(★1)率いる1個軍団(8戦力)がライプチヒに攻め込む。両要塞は瞬時に陥落。勢いに乗るフリードリヒ本隊は、要域ドレスデンに攻め込むが・・・。

1756年10月

ドレスデンを囲むプロイセン軍だったが、ドレスデンにこもるザクセン軍はルトヴィスキ将軍(★★1)指揮の元奮戦し、ドレスデンを守り通した。城外で野陣を張るフリードリヒ軍に厳しい冬が近づいている。

1756年12月

冬季損耗によりフリードリヒ軍は少なからぬ損害を被ってしまう。そしてドレスデンは年内を持ちこたえた。

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1757年2~6月

年が明けてオーストリア軍が本科的に動き始めていた。モラビアのオリュミッツを囲むプロイセン軍の背後を付いたブラウン将軍(★★2)がシレジアに進入。グラツ要塞を起点としてシレジア領内を席巻し、ブレスラウを含む北部シレジア地方の大半を制圧していた。オリュミッツを囲むプロイセン軍は連絡線を断たれて壊滅の危機が迫る。

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1757年8月

プロイセン軍はオミュレツの包囲を解き、グラツ、シュフィドニツァの奪回を狙ってきた。一方、オーストリア軍FM ブラウン将軍率いる1個軍団がドレスデンを囲むフリードリヒ軍を襲った。プロイセン軍は斜行陣を駆使して迎え撃ったが、度重なる消耗で疲れきったプロイセン軍にオーストリア軍を打ち破る力はなかった。フリードリヒ軍は大損害を被って後退し、ドレスデンの包囲は解かれた。

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1757年10月

ロシア軍が動いた。3個軍団(24戦力)の大戦力で東プロイセンのケーニヒスベルグを囲む。24戦力もの大戦力で攻撃を受けたら、さしものケーニヒスベルグもひとたまりもない。ケーニヒスベルグは陥落し、ロシア軍は、西に向けた門を確保した。

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1758年2月

冬季Turnを経て兵力を回復した反プロイセン軍。いよいよプロイセン軍に止めを刺すべく行動を開始する。
まずオーストリアのFM ブラウン将軍率いる1個軍団がシレジア地方のシュフィドニツァ要塞を襲う。要塞を守るプロイセン軍は粉砕され、オーストリア軍はオリュミッツとブレスラウを結ぶ連絡線を確保した。

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ソルティコフ将軍(★★2)率いるロシア軍3個軍団(24戦力)はケーニヒスベルグから出発。ポーランド領内のダンツィヒに襲いかかる。ダンツィヒを守るプロイセン軍は瞬殺されてしまう。

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1758年4月

プロイセンに止めを刺したのは、西から攻め上がってきたフランス軍であった。アーヘンを出撃したフランス軍は、プロイセン、ハノーヴァー連合軍の守備の隙を付いてウィーゼル、ミンデン、ハノーヴァー、さらにはプロイセンの本拠地とも言うべきマグデブルグまで電撃的に占領した。カードプレイによってマグデブルグを取り返したプロイセン軍であったが、抵抗もそこまでだった。
Turn終了時にプロイセン軍が支配したいる策源は、ステッテン、ベルリン、マグデブルグ、ライプチヒ、ハンブルグ、そして英本土の3箇所で計8ヶ所。Turn終了時に支配下の策源地が8ヶ所以下の場合、プロイセン軍の敗北になる。

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感想

ここまでのプレイ時間は約2.5時間だった。全Turn数の1/4ぐらいが経過した時点での所要時間なので、フルTurnプレイしたら10時間以上かかりそうである。今回は反プロイセン軍の勝利に終わったが、このゲーム、確かにプロイセン軍は難しい。プロイセン軍にとってはやり甲斐のあるゲームだが、最終Turnまでやり遂げるには相応の根気と技量が必要になりそうである。

ただルールは簡単で面白いゲームなので、機会を見つけて再戦したい。

追記:
後でルールを確認した所、今回のような「敵の隙をついた電撃侵攻」は不可能であることがわかった。というのも、敵地の支配権を得るのは手番終了時なので、敵地スペースに進入したら、その手番ではそれ以上奥には進めない、というのが正しいルールらしい。
今回の例で言えば、フランス軍は最初にプロイセン側が支配しているウィーゼルに進入した時点でその手番はそれ以上奥には進めなくなり、ハノーヴァーやマグデブルクまでは進撃できないということになる。

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2014年3月に発売された「フリードリヒ最大の危機」(GJ#50)は7年戦争をキャンペーンレベルで扱ったシミュレーションゲームである。プレイヤーはプロイセン側又は反プロイセン側陣営を指揮し、7年戦争の勝敗を巡って争う。
今回私はプロイセン側を担当した。

1756年

イメージ 12序盤はプロイセン軍だけが動けるので、今の間で地盤を固めておきたい。
マグデブルグに集結したフリードリヒ(★★3)率いるプロイセン軍は、ザクセン領内に侵入。二手に分かれてライプチヒとトルガウの二大要塞に攻め込む。またブレスラウから進発したシュヴェーリン(★2)率いるプロイセン軍がドレスデンを攻撃する。ザクセン軍は要塞に立て篭もって激しく抵抗してきたが、年内にはプロイセン軍はザクセンの主要部を制圧した。
一方のオーストリア軍はダウン伯(★★2)指揮の元モラビアのオリュミッツを起点に出撃。シレジア領内に侵攻し、グラツを占領していた。

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ザクセンを制圧するプロイセン軍


1757年

フランス、ロシアの2大国が相次いで反プロイセン陣営として参戦する。いよいよ厳しくなるプロイセン軍だが、果たして・・・。
イメージ 13イメージ 14名将フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ザイトリッツ(★3)率いるプロイセン軍がポーランド領内に侵入する。トルン、ダンツィヒといったポーランドの要域を占領するプロイセン軍は、東プロイセンとプロイセン本国との間の連絡線を確保した。しかし東プロイセンンのさらにその東から大軍にモノを言わせたロシア軍は動き出した。ステファン・フョードロヴィッチ・アプラクシン(★★1)率いる24戦力の大兵力である。東プロイセンを守るプロイセン軍はその1/3に過ぎない。彼らはポーランド領内へと撤退を余儀なくされてしまう。ケーニヒスベルクはロシア軍の支配する所となった。

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ポーランドを進撃するプロイセン軍


1758年

イメージ 12フリードリヒ率いるプロイセンの主力部隊がボヘミアに侵攻。ボヘミアの首都プラハはプロイセン軍の支配する所となった。返す刀でフリードリヒ指揮下のプロイセン主力野戦軍はポーランドへ転戦。ポーランド西部のトルンでロシア野戦軍主力を捕捉した。兵力は互角であったが、指揮能力に勝るプロイセン軍がロシア軍を圧倒した。大損害を受けて後退するロシア軍をプロイセン軍がさらに追う。ダンツィヒで再びロシア軍を捕捉したプロイセン軍は逃げるロシア軍を圧倒。これに壊滅的な被害を与えていた。

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ダンツィヒの会戦

イメージ 15その間、オーストリア軍はプラハを奪回すべく大攻勢を仕掛けてきた。プラハに籠るプロイセン軍は城を頼りに守るしかない。しかし兵力差は如何ともし難く、次第に追い詰められていくプロイセン軍。しかしそこで奇跡が起こった。プラハを囲んでいたオーストリア軍が突如撤退を開始したのである。この不可解な現象を後の人は「プラハの奇跡」と呼ぶ。驚いたオーストリア軍首脳は、指揮に当たっていたダウン伯を直ちに解任したが、時既に遅しだった。

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1759年

東プロイセンのケーニヒスベルクでロシア軍とプロイセン軍が激突した。しかし戦いは相変わらず一方的であった。ロシア軍主力は散々に打ちのめされてロシア本国へと撤退した。

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ケーニヒスベルクの会戦

イメージ 16イメージ 17さらに西部国境では、プロイセンと同盟を結んでいた英・ハノーヴァー軍がフランス軍に対して胸のすくような大勝利を収めた。ブランシュバイク公(★★2)率いる英・ハノーヴァー軍は、ハノーヴァーを拠点として出撃しライン川沿いを南下。交通の要域カッセルを占領し、フランス軍を3つに分断した。そのうちの1つ、ブロイ公(★1)率いる8戦力のフランス軍をロスバッハに追い詰めた英・ハノーヴァー軍は、これをロスバッハに包囲した。包囲されたフランス軍は英・ハノーヴァー軍の攻撃を受けて壊滅。英・ハノーヴァー軍は倍以上の戦力を持つフランス軍に痛打を与えたのだ。

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カッセルを占領したカンバーランド軍。この直後ロスバッハでフランス軍を打ち破ることになる

イメージ 15ボヘミアでは、先に解任されたはずのダウン伯が再び大軍を率いてプラハを囲んだ。今回奇跡は起こらずプラハは陥落。しかしすぐにフリードリヒが帰ってきた。フリードリヒとの決戦を避けてオーストリア軍は後退。フリードリヒはプラハを奪回する。さらに東へ進んだフリードリヒはモラビアへ侵入。要域オリュミッツを占領した。

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1760年

イメージ 18ブランシュバイク公(★★2)率いる英・ハノーヴァー軍8戦力がユトランド半島に進出してきた。ユトランド半島にはハミルトン(★1)率いるスウェーデン軍4戦力がプロイセン侵攻の機会を伺っていた。オーガスタス公はスウェーデン軍を圧倒。彼らをユトランド海峡の北側に押し返し、北からの脅威を排除した。
その間、プラハでは、相変わらずオーストリア軍とプロイセン軍の角逐が続く。オーストリア軍が大軍でプラハを奪回したと思いきや、直ちにプロイセン軍がそれを取り返す。

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プラハに入城するオーストリア軍

1761年

イメージ 19年が明けると、ロシア軍が再び動きだした。名将ピョートル・セミョービッチ・ソルティコフ(★★2)率いるロシア軍がケーニヒスベルクに攻め込んだのである。ザイドリッツ(★3)率いるプロイセン軍がこれを迎え撃ったが、大敗。プロイセン軍はポーランド領内へと後退していった。

イメージ 15さらにモラビアでは、ブルンを攻囲中のフリードリヒ軍に対し、ダウン伯率いるオーストリア軍が襲いかかった。倍近い兵力で攻め込むオーストリア軍に対してさすがのフリードリヒ軍は為すすべなく後退。その間にオーストリア軍の追撃を受けて兵力の半数を失ってしまう。フリードリヒ軍はオーデル川西岸に後退し後図を策す。

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ブルンの会戦

イメージ 12勢いに乗るオーストリア軍はオリュミッツを奪回した後オーデル川沿いに北上。フリードリヒ軍を追う。Briegに集結し態勢を整えるプロイセン軍は、得意の斜行戦術でオーストリアの大軍を迎え撃つ。戦いは激しいものとなった。兵力に劣るプロイセン軍であったが、フリードリヒの陣頭指揮等もあって善戦した。しかし得意の斜行戦術がスカに終わった時点で勝負あった。結局は兵力に勝るオーストリア軍が勝利を収めてプロイセン軍は敗退。ブレスラウに向けて後退を余儀なくされてしまう。

1762年

イメージ 15ブレスラウで再編成を図るプロイセン軍。兎に角オーストリア軍が追撃を仕掛けてくる前に本国へ帰還したかった。しかしここで運命はプロイセン軍に非情であった。2回連続でオーストリア軍チットが引かれたのである。傷ついた将兵を抱えたプロイセン軍にオーストリア軍が襲いかかる。このブレスラウの会戦で壊滅的な打撃を受けたプロイセン軍は、ザイドリッツ、シュヴェーリンといった歴戦指揮官の殆どを失うに至った。

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ブレスラウの会戦

この時点で時間切れでゲーム終了。ロシアの裏切りだけに期待を繋いだ状態でのゲーム終了となった。

感想

ここまでのプレイ時間は8時間強。ただ比較的ゆったりプレイだったのでもう少しペースアップは可能だと思う。全44Turnで残りは9Turn。ということはこのペースなら10時間ぐらいはプレイ時間を覚悟する必要があるかもしれない。慣れのせいもあると思うが、見た目よりは「重いゲーム」だと思った。

ゲーム自体は面白い。ルールはシンプルでチット引きによるドキドキ感も良い。ルールそのものはシンプルなので、7年戦争に詳しい人にとっては不満が残る内容かもしれない。私のようにこの時代に門外漢にとっては、気にならなかった。内戦防御の有利性や機動防御、兵力の過度な集中がもたらす危険性等が上手く表現されている。機動力を誇るプロイセン、オーストリア、英ハノーヴァーに対し、大軍だが鈍重なフランス、ロシアとの対比が面白い。

機会があれば再戦したい作品である。

なお余談だが、戦闘時のカード使用については、まず攻撃側がカードを使う/使わないの宣言をした後、防御側がカードの使う/使わないを宣言する、と決めておいた方が良いと対戦後に語り合った。しかしこの方法だと防御側が一方的にトリックを仕掛けられる。
そこでオリジナル通り同時宣言とするが、カードプロットの際、関係ないカードをダミーカードとしてプロットできる、というのはどうだろうか。つまり「能力的に使えないカード」や「関係ないカード」をあたかも戦闘カード同様にプロットできるようにする訳だ。こうすれば変な小細工が使えなくなるので良いと思えるが、如何だろうか?。

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