もりつちの徒然なるままに

ウォーゲームの話や旅の話、山登り、B級グルメなどの記事を書いていきます。 自作のウォーゲームも取り扱っています。

カテゴリ:戦史 > 中世ヨーロッパ

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「フランス革命1789」は2023年にGame Journal誌89号の付録ゲームとして発売されたSLGです。
テーマはフランス革命前後のフランス国内における政治的闘争で、プレイヤーは2~5名。プレイヤーはそれぞれフランス革命を裏で操る黒幕となり、ロベスピエールやナポレオンといったフランス革命期に活躍した人物を駆使して勝利を目指します。
今回「フランス革命1789」のコンポーネントを紹介する動画を作成してみました。
(ちなみに、先日実際にプレイしてみましたが、目茶苦茶面白かったです)



シミュレーションジャーナル ゲームジャーナル89号 フランス革命1789
シミュレーションジャーナル ゲームジャーナル88号 激闘!ロンメル&マッカーサー
シミュレーションジャーナル ゲームジャーナル87号 新信長風雲録
シミュレーションジャーナル ゲームジャーナル86号 戦略級三国志英雄伝説
シミュレーションジャーナル ゲームジャーナル83号 ノルマンディ強襲
シミュレーションジャーナル ゲームジャーナル別冊 激闘 関ヶ原 ~どうする家康?どうなる関ヶ原!?~



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「薔薇戦争」はGame Journal誌#65の付録ゲームです。テーマは1455年から約30年間続いた薔薇戦争で、1Turn=2~3年のスケールで計15Turn戦います。基本システムは「太平記」(旧Game Journal#63)で、主導権、移動、戦闘、支配などのルールはオリジナルの「太平記」と殆ど同じです。

システムの特徴としては、主導権による交互移動システムと土地支配システム、そして補充システムです。特に主導権は重要で、主導権を握った側は戦闘を優位に進められます。主導権は完全にランダムで決定し、その確率はほぼフィフティフィフティです。出目が悪くて全く主導権を取れないと、ゲームで勝利を収めるが極めて困難になるでしょう。そういった意味では運の要素が強いゲームだとも言えます。

対人戦で2回プレイして2回とも敗北しました。ヨーク家、ランカスター家それぞれ1回ずつ担当し、両方で敗北したということは、図らずとも本作のバランスの良さを示唆しているのかもしれません。

プレイ時間も2時間以下(通常は1時間以下で終わると思われる)なので、メインのゲームが終わった後のプレイに供するのが良い方法かも。ゲーム的にもパズル指向で興味深い内容になっているので、機会があれば是非プレイしてみて下さい。


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ゲームジャーナル65号 幕末維新始末/薔薇戦争
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以前から興味を持っていた「Here I Stand」(GMT)について、遂にプレイする機会を得ました。
担当はプロテスタント。ゲームタイトル「Here I Stand」を叫んだマルティン・ルターが率いる陣営なので、ある意味主役と言っても良い陣営です。

ゲーム展開

第1~3Turn --> こちら
第4~7Turn --> こちら

感想

イメージ 6さあこれから、という状況で突然ゲーム終了。トルコが勢力を広げて勝利ラインである25VPを達成したからだ。とはいっても朝10時過ぎから始めたゲームは、気が付けばいつの間にか午後7時を回っていて、「もうお腹一杯」というのが正直な所。このゲーム、フルTurnをプレイすると9Turnになるが、実際9Turnプレイすることは稀であるとのことだった。
プロテスタントの獲得VPはこの時点で22VP。順位的にはトルコ、イングランドに次いでハプスブルクと並ぶ3位。勝ちを目指した訳ではなく、どちらかといえばルールの理解が目的のプレイだったが、負けるとやはり悔しい。次は勝ちたいと切に思う。

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イメージ 3初プレイで敗因を語るのも何だが、強いてあげるならば勝負を仕掛けるのが遅すぎたことだろうか。プロテスタントの場合、最初の4~5Turn頃までが勝負だろう。この時点であればカトリック側司祭の能力も数もプロテスタントに及ばない。それが第6Turnになると、カトリック最強の論客イグナチオ・デ・ロヨラが登場し、プロテスタント側ではルターが死亡したりカルヴァンが追放されたりして相対的にカトリック側が有利になってくる。さらにシュマルカルデン同盟によってプロテスタントも軍事的な活動が必要になると、今度はハプスブルク(本文中は神聖ローマ帝国と表現)との軍事的衝突にも対応する必要が出てくる。そういった意味では、プロテスタントは電撃的に勝利を得るのが最良ではないだろうか。

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イメージ 2さらに根源的な敗因を求めるとすれば、勝利のためのプランを持たなかったことと外交関係を使いこなせなかったことだろう。まず勝利のためのプランとしては、本ゲームの勝利条件は、いずれの陣営も25VP以上を獲得することである。また勝利得点を達成した時点でゲーム終了となる。勝利得点はオープンなので、勝利に近づいたプレイヤーは他のプレイヤーから攻撃を受けて足を引っ張られることになる。勝つためには他のプレイヤーの妨害を見越した上で、それを凌ぐ形でVPを獲得していく必要がある。ただ漫然とプレイしていても勝てないようになっているのだ。
外交関係についていえば、本作は「自分以外は全部敵だが、全部味方のように振る舞う」ゲームではない。歴史的な枠組みと陣営毎の特徴づけによってある程度潜在的な敵と味方がハッキリしている。プロテスタントにとって不倶戴天の敵は間違いなくローマ法王。次いでハプスブルクが潜在的な敵となる。逆に潜在的な味方は、同じくプロテスタント陣営に属するイングランドとカトリックの天敵トルコといった所か。フランスは中立といった所。プロテスタントが勝つためには彼らの力関係を把握しつつ、そのバランスを利用して自陣営に有利になるように外交戦を仕掛ける必要があるだろう。そういった意味ではプロテスタントとはいえ宗教ルールだけではなく、軍事面でのルールや新大陸の探検、海賊行為といった一見プロテスタントには関係なさそうなルールについても把握しておく必要があるだろう。

不倶戴天と書いたが、実の所、プロテスタントとローマ法王は意外な所で協調できる場合がある。それは論争だ。お互いに論争合戦を仕掛けて「火炙り」や「破門」を出すことだ。これによってお互いVPを稼げるので、勝利ラインに近づくことができる。やや苦しいたとえ話だが、プロテスタントによる宗教改革によってカトリック側で危機意識が高まり、そのことがカトリック側の自浄作用を引き起こした、と言えるのかもしれない。

イメージ 8Here I Standについては、これまで色々と噂話は聞いていたが、ゲームのテーマが私にとってのストライクゾーンからやや(大幅に?)外れていることやマルチゲームは守備範囲外という意識もあって今までは手を出しかねていた。またルールの多さや対戦相手にゲーム慣れしたプレイヤーが多いという点もネックになったように思う。
「初心者がいきなり参加しても、何をして良いかわからない間にカモにされて終わりでしょ?」
という偏見があったことも否定できない。

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今回参加した感想としては、本作の魅力を云々できるほど本作に習熟した訳ではないが、間違いなく佳作以上の作品であると感じることはできた。軍事的な対決を軸に置きながらも、その裏で繰り広げられる宗教上の争い。さらに新大陸発見やヘンリー8世の6人の妻といった生々しい話など、16世紀の欧州情勢を余すことなく再現している。確かにルールは多いが、これだけ多彩なドラマ性を持ったゲームで、しかも十分理解できる範囲のルール量で収まっていることは素晴らしい。ドラマ性といえば、中世史について殆ど素人の下名が、プロテスタントという限られた立場で、しかもルールブックとWikipediaだけを片手に、(内容は兎に角として量的には)これだけの文章をでっち上げることができることからも本作のドラマ性が伺えよう。

本当に再戦したいと思える作品だった。

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以前から興味を持っていた「Here I Stand」(GMT)について、遂にプレイする機会を得ました。
担当はプロテスタント。ゲームタイトル「Here I Stand」を叫んだマルティン・ルターが率いる陣営なので、ある意味主役と言っても良い陣営です。

ゲーム展開

前回までの展開は --> こちら

4Turn(1532-1535年)

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イメージ 8次第に勢力を拡大しつつあるプロテスタント勢力に対し、神聖ローマ皇帝カール5世はカトリック教会の要求を呑む形で教会財産の返還をプロテスタント諸侯に求めた。これに対して財産を奪われることを恐れたプロテスタント諸侯は、反皇帝同盟を結成した。これがシュマルカルデン同盟と呼ばれるもので、これによってプロテスタント勢力は、これまでのような信仰のみの活動ではなく、軍事面や経済面での活動にも巻き込まれることになっていく。
イメージ 7シュマルカルデン同盟によって2人の軍事指揮官ザクセン公ヨハン・フリードリッヒ(John Frederick 0-6)とフリップ・ヘッセ(Phillip of Hesse 0-6)を得たプロテスタント勢力は、選帝候スペースを守るべく急遽傭兵隊を拡張した。
しかし時既に遅し。神聖ローマ皇帝カール5世は、その弟フェルディナンド(Ferdinand 1-6)らが率いる計10戦力の大軍をプロテスタント諸侯に対する攻撃に振り向けてきた。要域アウグスブルクが神聖ローマ皇帝軍の攻撃を受けて壊滅。さらにフェルディナンドはライン川沿いに進んでマインツが神聖ローマ皇帝軍の包囲攻撃を受けるにいたる。
イメージ 9シュマルカルデン側(プロテスタント)はザクセン公ヨハン・フリードリッヒ公に6戦力の傭兵隊を授けてマインツ救援に向かわせるが、マインツ付近に布陣したフェルディナンドの巧みな奇襲攻撃を受けて無残な敗北を喫してしまう(マインツの戦い)。野戦軍を退けた神聖ローマ皇帝軍はマインツを陥落させた。フリップ・ヘッセも神聖ローマ帝国の捕虜となってしまう。

同じころ、どういうわけだかイングランドでプロテスタントが爆発的に普及する。ロンドン(London)を中心に、プリマス(Plymouth)、ブリストル(Bristol)、シュルーズベリー(Shrewsbury)がプロテスタント勢力によって信仰上は支配された。

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5Turn(1536-1539年)

慣れないことをするものではない。
先のTurn、軍事行動に手を染めたばかりに貴重な選帝侯スペース2個を失ったプロテスタント陣営は、ここから再び信仰上の争いに転化していく。

イメージ 11まず英語圏での新約聖書の翻訳を進める。これに活躍したのがウィリアム・ティンダルとマイルス・カバーダール(Coverdale[2])の2人で、このTurnに新約聖書の翻訳が完了した。そのためにプロテスタントはイングランド島全域を席巻し、同地におけるカトリック勢力をほぼ駆逐した。先のTurn、ロンドンに登場したプロテスタント陣営3人目のパフォーマー、トマス・クランマー(Cranmer[3])の影響も大きかった。

イメージ 10欧州大陸は、ラテン語圏でのプロテスタントの布教活動が始まった。先のTurn、プロテスタント陣営第4のパフォーマーとして、スイスのジュネーブにジャン・カルヴァン(Calvin[4])が登場する。またピエル・ロベール・オリベッタ (Olivetan[1])は新約聖書のラテン語翻訳を進めていき、このTurnに完成に漕ぎ着けた。そのために東フランス全域ではプロテスタント旋風が吹き荒れたが、同方面ではカトリック側も論文攻勢を展開。両陣営で一進一退の攻防が続く。

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6Turn(1540-1543年)

ルターが得意の宗教論争をヴェネツィア出身のカトリック系神学者ガスパロ・コンタリニ(Contarini[2])に対して挑んだ。「私は立つ」。コンタリニ破門によるVP獲得を狙った活動だったが、コンタリニの巧みな論法によって逆にルターはタジタジ。この論戦はカトリック側の勝利に終わり、ドイツ語圏でのプロテスタント勢力が一部カトリックに改心してしまう。失意のルターは、そのTurnに死亡。ルターに代わってジャン・カルヴァンが新しいプロテスタントの実質的リーダーとなった。しかしそのカルヴァンがカトリック派の陰謀によって一時的に追放になり、そこからプロテスタントにとって苦難が始まる。

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イングランドで勢力を拡大しつつあったプロテスタント陣営は、カトリック側の反撃によって分断されていく。プロテスタント革命の本丸ともいうべきドイツ語圏にもカトリックの魔の手が迫る。ドイツ農民戦争が発生し、不穏化したドイツ語圏内ではローマ法王の息のかかったカトリックの司教達が布教活動を行い、レゲンスブルグ、ニュールンベルグがカトリックに靡いていく。

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7Turn(1544-1547年)

イメージ 13カトリックによる宗教攻勢がなおも続く。スペインに生まれ、軍人生活の後に宗教家を道を進んだイグナチオ・デ・ロヨラ(Loyola[4])は、パリ大学の学友らとイエズス会を設立した。イエズス会といえば、日本に布教にやってきたフランシスコ・ザビエルが有名だが、残念ながらザビエルはゲームに登場しない。

何はともあれ、イエズス会の活動はイングランドで本格化し、ヨークとロンドンにイエズス会の事務所が設立された。イエズス会の事務所を拠点に英語圏でのカトリック教会の反撃が始まる。余談だが、プロテスタントの司祭達は言語圏による制約を受けて、例えばルターはドイツ語圏のみ、カルヴァンはラテン語圏といった形で積極的に活動できる範囲が限定されている。それに対してカトリックの司祭は言語圏の制約を受けない。これは大学に学び高度な学識を身につけたカトリック側司祭と、地元に土着してあくまでも「地域土着」を貫くプロテスタント側司祭の違いといった所か。

時を同じくして北東イタリアのトレントにてトレントの公会議が開かれた。この会議は元々はプロテスタントとカトリックの宥和を目指して神聖ローマ帝国皇帝カール5世が開催を意図したものだったが、結局はカトリックによるプロテスタントに対する反宗教改革に終始した。この会議にカルヴァン、クランマーといったエース級を温存し、2戦級の論客を投入したプロテスタント陣営は、カトリック側との論戦に大敗。この結果を聞いたイングランドでは、プロテスタント側は4スペースを失う。

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イメージ 9神聖ローマ帝国による軍事面でのプロテスタントに対する圧力も再び強まってきた。フェルディナンド(1-6)らが率いる神聖ローマ帝国軍10戦力がプロテスタント側城塞都市ケルン(Colonge)に対して包囲攻撃を仕掛けてきた。年単位に渡る激しい攻城戦の末、ケルンは陥落。プロテスタントはまたもや拠点を失った。

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イメージ 15プロテスタントの反撃はラテン語圏で実施された。ピエル・オリベッタらが聖書のラテン語全訳版を完成させ、東フランス一帯でプロテスタントの布教に成功した。さらにカルヴァンは「キリスト教綱要」と呼ばれる著作を完成させた。これは1500ページにも及ぶ大著で、この著作によりプロテスタントが理論的に完成されたといわれている。「キリスト教綱要」が発表されたことによりフランスにおけるプロテスタント勢力は一気にパリ近郊まで広がってきた。

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「Here I Stand」って何?
高校の時に日本史を専攻し、世界史といえば中学校レベルの私にとって、マルティン・ルターも宗教改革も興味の対象外でした。「ヒアアイは傑作だよ」という話は以前から聞いていましたが、上記の理由に加えてマルチプレイヤーズゲームであることも手伝って、これまではプレイする機会のなかったゲームです。

この度、Here I Stand(GMT)をプレイしようと思ったのは、ゲームに対する興味というのも無きにしも非ずですが、それよりは物珍しさ見たさという要素が大きかったと思います。

今回、下名はプロテスタントを担当しました。ゲームタイトル「Here I Stand」が宗教改革の旗手ともいうべきマルティン・ルターのセリフなので、ある意味主役と言っても良い陣営です。実際の所、主役かどうかは別として、宗教的色彩が非常に濃い陣営なので(アタリマエなのですが)、軍事力を軸とする他の陣営とはやや異質な戦い方を必要とします。

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ゲーム展開

1Turn(1517-1523年)

イメージ 3本ゲームは、主役であるマルティン・ルター(Luther[4],[]内の数値は宗教家としての能力、以下同じ)が「95箇条の論題」を教会に対して提出したことから開始される。ルターはドイツ語圏北東部のヴィッテンベルグ(Wittenbetg)を活動拠点とし、プロテスタント勢力拡大を図ったが、布教ダイスに恵まれず今一つ伸び悩む。結局プロテスタントは、ブランデンブルク(Brandenburg)、ルンベック(Lubeck)、マグデブルク(Magdeburg)に信仰を広めたにとどまった。その直後に開催されたウォルムス公会議における論戦に勝利したプロテスタント陣営は、さらにエアファルト(Erfurt)までその信仰を広めた。
イメージ 7その後プロテスタント陣営は新約聖書のドイツ語版翻訳に勤しみ、Turn終了までに完成に漕ぎ着けた。新約聖書の翻訳完成によってプロテスタント勢力はさらに信仰を広げ、ハンブルグ(Hamburg)やライプチヒ(Leipzig)等もプロテスタント勢力が及ぶに至った。さらにCarkstat[1]が宗教論文を乱発。その過激な論調は一方でプロテスタント信者を増やしたが、その一方でドイツ語圏内に不穏な動きを引き起こすことにもなった。
イメージ 8しかしカトリック側も黙って見ていただけではなかった。ルター友人であったヨハン・エック(Eck[3])を使って「ライプチヒの宗教論争」でプロテスタント陣営に揺さぶりをかけてきた。エックは能力3ながら、論戦になるとダイスを1個余分に使えるという論客である。強敵出現に対し、プロテスタント陣営は「私はここに立つ(Here I Stand)」と叫んでルター自らが論戦に応じた。しかしこの宗教論争でルターはエックに大敗。危うく「火炙り」になることは免れたルターであったが、その敗北はプロテスタント陣営に大きな打撃となった。

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第1Turn終了時のプロテスタント勢力圏

宗教論争は攻撃側が能力+3個のダイスを振り、防御側が能力+1~2個のダイスを振る。お互い5,6の目が命中であり、命中数の比較して大きい方の勝ち。大きい方が差分だけ相手陣営の影響スペースを自分の影響下に変更できる。それに加えて差分が負けた側の論争能力を超えていると、負けた論客は「火炙り」又は「破門」となってゲームから除去される。今回はカトリック側がダイス7個、プロテスタント側がダイス6個を振り、命中数が4対1。ルターは「火炙り」こそ免れたものの、プロテスタント側スペース3箇所を失った。

Here I Standカードはプロテスタント陣営のホームカード(毎Turn固有に使えるカード)である。Here I Standカードが未使用の場合、プロテスタント陣営は論戦が起こった時に「私は立つ」と宣言してルターを論戦に投入できる(それ以外の場合はランダムに選択)。今回、カトリック側の論戦に対して「私は立つ」カードを使ってルターを立てたが、結果的にはこれは失敗だった。「火炙りの刑」になるリスクが(小さいとはいえ)存在していることももちろんだが、論戦の場合は防御に回るよりも攻撃に出たほうが有利になる。ルターのように能力に優れた論客は、敵のエース級と対決させるのではなく、雑魚狩りに使った方が効果的であった。

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2Turn(1524-1527年)

イメージ 10活動家ウルリッヒ・ツウィングリ(Zwingli[3])がスイスのチューリッヒに2人目のパフォーマーとして登場する。チューリッヒはスイスで初めてのプロテスタントの町になった。さらにツウィングリも含めて論客4名がプロテスタント陣営に加わった。計8名の論客を揃えたプロテスタント陣営は人数面でカトリックに対して優位に立った。

イメージ 11このTurn、プロテスタントは聖書の完全ドイツ語訳版を完成させた。さらにマルティン・ルターが「硬き砦」というイベントを使ってドイツ語圏でのプロテスタント普及を進める。このTurn、ミュンスター(Munster)、カッセル(Kassel)までプロテスタントの信者が広がり、スイスではチューリッヒ(Zurich)からバーセル(Basel)までプロテスタントの信者が広がってきた。
勢いに乗るプロテスタント陣営はカトリック教会に対して論戦を挑んだ。「私は立つ」と言ってマルティン・ルターが論陣を敷く。対するカトリック陣営からは「さー安いよ、安いよ」と言いながら免罪符を売り歩いていたヨハン・テツェル(Tetzel[1])が論壇に立つ。しかしルターを前にして坊主なのか悪徳商人なのかわからないようなテツェルでは余りに分が悪い。論戦は予想通りルターの圧勝。余りに酷い敗北に悪徳坊主テツェルはカトリック教会を破門になってしまう。

これらの事件によってプロテスタント陣営は、このTurn終了時までライン川沿いの主要な選帝候スペース3箇所を勢力下においた。それはケルン(Cologne)、マインツ(Mainz)、トリーア(Trier)である。

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第2Turn終了時のプロテスタント勢力圏


3Turn(1528-1531年)

イメージ 7イメージ 12ウルリッヒ・ツウィングリとマルティン・ブセール(Bucer[2])が南ドイツ語圏で論文攻勢を実施。要域アウグスブルク(Augsburg)をプロテスタントの勢力下においた。これにより6箇所ある選帝候スペースの全てをプロテスタントの勢力圏とした。
さらに論文攻勢で南ドイツ語圏のリンツ(Linz)、グラーツ(Graz)を勢力下としたプロテスタント陣営は、さらにカトリック陣営に対して論戦を挑んだ。公開討論会で「私は立つ」と叫んでルターが立つと、カトリック陣営の論客ジェローム・アレンダー(Aleander[2])を論戦で圧倒した。ここでも不甲斐ない敗北を喫したアレンダーに対し、ローマ法王は破門を言い渡した。この公開討論会によってストラスブール(Strasburg)、ザルツブルグ(Salzburg)がプロテスタントに靡いた。ドイツ語圏で残るカトリックの牙城はウィーン(Vienna)だけになってしまう。
イメージ 82度に渡る論戦の敗北を受けて焦るカトリック陣営は、ライプチヒで公開討論会を開催し、プロテスタント陣営に対して反撃を試みる。この討論会でカトリック陣営はヨハン・エックを再び論壇に立ててきた。プロテスタント陣営はエース不在(ルターは先ほどの「私は立つ」カードによって使用済状態)の状況下でイングランド出身のウィリアム・ティンダル(Tyndale[2])とスイス出身のハインリッヒ・ブリンガー(Bullinger[2])の2人で討論会に挑んだ。負ければ火炙りの刑にも成りかねないという緊張感の中、ティンダルとブリンガーはカトリック側論客と互角の論戦を展開。カトリック陣営の理論攻勢を何とか切り抜けた。


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