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米潜水艦「ワフー」について

米国海軍潜水艦「ワフー」(USS Waho SS-238)。ガトー級潜水艦の27番艦です。
日本では殆ど知られていないこの艦ですが、米国では結構有名な艦らしく、例えば"USS Wahoo"で検索すると結構な数がヒットします。
なぜ「ワフー」が有名なのか?。どうやらそれは以下の2点にあるようです。

1.撃沈した日本艦船数

「ワフー」が大戦中に沈めた日本艦船は約20隻。これは隻数だけで言えば米潜水艦の中では第6位のスコアになります。ただ「ワフー」の沈めた船は小型船が多かったため、撃沈トン数の比較になると第20位以下になります。いずれにしてもかなりの成績なのですが、「ワフー」の凄い所は、この戦果を1942年後半から1943年前半にかけて達成しているという点です。ご存知の通り大戦中に米海軍が使用した潜水艦用魚雷には様々な欠陥があり、その欠陥が解消されるのは1943年後半に入ってからです。すなわち「ワフー」は「出来の悪い」魚雷で戦ったということになります。さらに付け加えるなら、1944年以降は米潜水艦隊は質量の両面で日本側護衛艦艇を大きく引き離し、極めて有利な立場にありました。しかし「ワフー」が活躍した1943年頃は米潜水艦も未だ「発展途上」の状態にあり、戦果を挙げるのはより困難な立場にあったのです。このような状況下で20隻もの日本船舶を沈めた「ワフー」とその艦長ダドレイ・W・モートン中佐(Dudley W. Morton)が英雄として扱われたのは、ある意味当然のことだったと言えるかもしれません。

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ニューギニア北岸で「ワフー」の雷撃を受けた我が駆逐艦「春雨」を「ワフー」の潜望鏡から撮影したもの。「春雨」は雷撃により船体前部を失うという大きな損害を被りましたが、沈没は免れました。

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「ワフー」の艦長ダドレイ・W・モートン中佐。1943年10月11日、日本海軍の攻撃により戦死

2.日本海への侵入

「ワフー」の活躍は撃沈した日本艦船の数だけではありません。日本海に侵入した潜水艦としても知られています。当時日本海は日本にとって「聖域」とでも呼ぶべき重要海域であり、日本海軍は米潜水艦の侵入を防ぐため対馬、津軽、宗谷の3海峡に機雷を敷設していました。「ワフー」はその機雷原を突破し、2度に渡って日本海に侵入しています。ちなみに米潜水艦が日本海への侵入を試みたのは以下の4回。「ワフー」はそのうちの半分に参加しているということになります。

・第1回:1943年7月(3隻)
・第2回:1943年8月(2隻)
・第3回:1943年9月(2隻)
・第4回:1945年6月(9隻)

「ワフー」による第1回目の日本海侵入は1943年8月でした。この時「ワフー」は多数の日本商船と遭遇、何本もの魚雷を発射しましたが、魚雷の不調により大きな戦果はありませんでした。一説によれば、「ワフー」は魚雷10本を発射しましたが、その多くが海面上に飛び出したり、でたらめな航走をしたり、あるいは命中しても爆発しなかったりで、結局魚雷は1本も効果を発揮できなかったそうです。

一旦真珠湾に帰還した「ワフー」は、欠陥の多いMk-14蒸気魚雷の代わりに、新型のMk-18電気魚雷を搭載することにしました。魚雷の搭載作業その他を完了した「ワフー」は9月に真珠湾を出撃。途中のミッドウェーで燃料補給を行った後、僚艦「ソーフィッシュ」(USS Sawfish(SS-276))と共に宗谷海峡を抜けて日本海に侵入しました。これが「ワフー」にとっての最後の戦闘航海となったのです。
日本海に侵入した「ワフー」は、まず関釜連絡船「崑崙丸」を撃沈しました。この攻撃は544名もの犠牲者を出したことから新聞にも大きく取り上げられました。さらに「ワフー」は「漢江丸」も撃沈し、必死になって追跡する我が対潜部隊を尻目に意気揚々と引揚げを開始したのです。

「ワフー」の最期

しかし「ワフー」は真珠湾に帰ることはありませんでした。日本海に侵入した後消息を断ってしまった「ワフー」の運命について、当時の米海軍は何も知りませんでした。しかし今日、「ワフー」の最期については、日米双方の記録を付き合わせることによって概ね判明しています。

日本海での狩りを終えた「ワフー」は、宗谷海峡を浮上したまま突破しようとした。「米潜水艦日本海侵入」の報に警戒を強めていた宗谷防備隊は、10月11日に浮上航行中の敵潜水艦を発見。沿岸砲台が砲撃を行った。もちろん敵潜はすぐさま潜行する。しかし稚内が発進した水上偵察機が油の帯と潜水艦の司令塔らしきものを発見。数発の対潜爆弾を目標に向けて投下した。さらに油が浮上してくる。もう1機の水上偵察機も爆撃に加わる。続いて2隻の駆潜艇、第15号と第43号が現場に到着。さらに特務掃海艇18号も加わり、計3隻の対潜艦艇で爆雷攻撃を行う。4時間に渡る爆雷攻撃で計63個の爆雷が投下された。この一連の攻撃によって「ワフー」が撃沈されたと見なされている。現場には夜になっても長さ5km以上にも及ぶ油帯が残ったという

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油を引きながら遁走を図る「ワフー」。1943年10月11日宗谷海峡にて


「ワフー」の喪失は米海軍に大きな衝撃を与えました。先にも書いたとおり「ワフー」とモートン中佐は間違いなく当時米潜水艦隊のエースの1人でした。その喪失は日本海侵入の危険性を米海軍に知らしめる結果となったのです。その後米潜水艦による日本海への侵入は長期に渡って行われず、日本海は再び「天皇の浴槽」となったのです。米潜水艦が日本海へ侵入するのは「ワフー」の喪失から1年以上経過した1945年6月のことでした。その時米潜水艦は機雷探知能力を持った新型ソーナーを搭載していました。米潜水艦が日本側の機雷をいかに恐れたかを窺い知ることができます。

余談ですが「ワフー」は日本海軍が撃沈した25隻目の連合軍潜水艦です(米潜水艦としては16隻目)。この「ワフー」の例も含めて、水上艦艇が主役となって撃沈した米潜水艦は決して少なくないのですが、最初の発見は航空機による場合が多く、水上艦が第一発見者になる場合も目標潜水艦が「たまたま浮上していた場合」が殆どでした。水上艦の水中聴音によって目標潜水艦を発見できた例は殆どありませんでした。日本海軍の水中捜索能力はこの時期まだまだ低レベルであったことがわかります。
日本海軍が水中聴音を主に使用して敵潜水艦を仕留めた最初の例は、恐らく1944年8月海防艦22号による米潜「ハーダー」撃沈です。その後海防艦を中心に水中聴音による戦果は次第に増えていきます。しかしその時期は米潜水艦隊は手がつけられないほど強力なものになっていて、水中聴音技術の向上は「焼け石に水」でした。

余談ついでにもう1つ。「ワフー」撃沈に大きく貢献した大湊航空隊の水偵隊は、この時期他にも2隻の米潜撃沈に貢献しています。この時期、東北から北海道近海の海域は米潜水艦にとって鬼門だったのかも知れません。

「ワフー」発見

2006年7月、アメリカ、オーストラリア、ロシア、そして日本の4カ国合同による「ワフー・プロジェクト・グループ」は、宗谷海峡に眠るガトー級潜水艦の残骸を発見しました。同年10月31日、米海軍は上記の残骸を米潜「ワフー」と断定しました。「ワフー」は50年の歳月を経て、今再び我々の前にその姿を現したのです。

水深65メートルの水中に死んだように眠っている「ワフー」。しかしこの「ワフー」には人類の夢が託されたいたのだ・・・・。

なーんてね。

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水中カメラが捉えた「ワフー」の姿