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「Here I Stand」って何?
高校の時に日本史を専攻し、世界史といえば中学校レベルの私にとって、マルティン・ルターも宗教改革も興味の対象外でした。「ヒアアイは傑作だよ」という話は以前から聞いていましたが、上記の理由に加えてマルチプレイヤーズゲームであることも手伝って、これまではプレイする機会のなかったゲームです。

この度、Here I Stand(GMT)をプレイしようと思ったのは、ゲームに対する興味というのも無きにしも非ずですが、それよりは物珍しさ見たさという要素が大きかったと思います。

今回、下名はプロテスタントを担当しました。ゲームタイトル「Here I Stand」が宗教改革の旗手ともいうべきマルティン・ルターのセリフなので、ある意味主役と言っても良い陣営です。実際の所、主役かどうかは別として、宗教的色彩が非常に濃い陣営なので(アタリマエなのですが)、軍事力を軸とする他の陣営とはやや異質な戦い方を必要とします。

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ゲーム展開

1Turn(1517-1523年)

イメージ 3本ゲームは、主役であるマルティン・ルター(Luther[4],[]内の数値は宗教家としての能力、以下同じ)が「95箇条の論題」を教会に対して提出したことから開始される。ルターはドイツ語圏北東部のヴィッテンベルグ(Wittenbetg)を活動拠点とし、プロテスタント勢力拡大を図ったが、布教ダイスに恵まれず今一つ伸び悩む。結局プロテスタントは、ブランデンブルク(Brandenburg)、ルンベック(Lubeck)、マグデブルク(Magdeburg)に信仰を広めたにとどまった。その直後に開催されたウォルムス公会議における論戦に勝利したプロテスタント陣営は、さらにエアファルト(Erfurt)までその信仰を広めた。
イメージ 7その後プロテスタント陣営は新約聖書のドイツ語版翻訳に勤しみ、Turn終了までに完成に漕ぎ着けた。新約聖書の翻訳完成によってプロテスタント勢力はさらに信仰を広げ、ハンブルグ(Hamburg)やライプチヒ(Leipzig)等もプロテスタント勢力が及ぶに至った。さらにCarkstat[1]が宗教論文を乱発。その過激な論調は一方でプロテスタント信者を増やしたが、その一方でドイツ語圏内に不穏な動きを引き起こすことにもなった。
イメージ 8しかしカトリック側も黙って見ていただけではなかった。ルター友人であったヨハン・エック(Eck[3])を使って「ライプチヒの宗教論争」でプロテスタント陣営に揺さぶりをかけてきた。エックは能力3ながら、論戦になるとダイスを1個余分に使えるという論客である。強敵出現に対し、プロテスタント陣営は「私はここに立つ(Here I Stand)」と叫んでルター自らが論戦に応じた。しかしこの宗教論争でルターはエックに大敗。危うく「火炙り」になることは免れたルターであったが、その敗北はプロテスタント陣営に大きな打撃となった。

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第1Turn終了時のプロテスタント勢力圏

宗教論争は攻撃側が能力+3個のダイスを振り、防御側が能力+1~2個のダイスを振る。お互い5,6の目が命中であり、命中数の比較して大きい方の勝ち。大きい方が差分だけ相手陣営の影響スペースを自分の影響下に変更できる。それに加えて差分が負けた側の論争能力を超えていると、負けた論客は「火炙り」又は「破門」となってゲームから除去される。今回はカトリック側がダイス7個、プロテスタント側がダイス6個を振り、命中数が4対1。ルターは「火炙り」こそ免れたものの、プロテスタント側スペース3箇所を失った。

Here I Standカードはプロテスタント陣営のホームカード(毎Turn固有に使えるカード)である。Here I Standカードが未使用の場合、プロテスタント陣営は論戦が起こった時に「私は立つ」と宣言してルターを論戦に投入できる(それ以外の場合はランダムに選択)。今回、カトリック側の論戦に対して「私は立つ」カードを使ってルターを立てたが、結果的にはこれは失敗だった。「火炙りの刑」になるリスクが(小さいとはいえ)存在していることももちろんだが、論戦の場合は防御に回るよりも攻撃に出たほうが有利になる。ルターのように能力に優れた論客は、敵のエース級と対決させるのではなく、雑魚狩りに使った方が効果的であった。

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2Turn(1524-1527年)

イメージ 10活動家ウルリッヒ・ツウィングリ(Zwingli[3])がスイスのチューリッヒに2人目のパフォーマーとして登場する。チューリッヒはスイスで初めてのプロテスタントの町になった。さらにツウィングリも含めて論客4名がプロテスタント陣営に加わった。計8名の論客を揃えたプロテスタント陣営は人数面でカトリックに対して優位に立った。

イメージ 11このTurn、プロテスタントは聖書の完全ドイツ語訳版を完成させた。さらにマルティン・ルターが「硬き砦」というイベントを使ってドイツ語圏でのプロテスタント普及を進める。このTurn、ミュンスター(Munster)、カッセル(Kassel)までプロテスタントの信者が広がり、スイスではチューリッヒ(Zurich)からバーセル(Basel)までプロテスタントの信者が広がってきた。
勢いに乗るプロテスタント陣営はカトリック教会に対して論戦を挑んだ。「私は立つ」と言ってマルティン・ルターが論陣を敷く。対するカトリック陣営からは「さー安いよ、安いよ」と言いながら免罪符を売り歩いていたヨハン・テツェル(Tetzel[1])が論壇に立つ。しかしルターを前にして坊主なのか悪徳商人なのかわからないようなテツェルでは余りに分が悪い。論戦は予想通りルターの圧勝。余りに酷い敗北に悪徳坊主テツェルはカトリック教会を破門になってしまう。

これらの事件によってプロテスタント陣営は、このTurn終了時までライン川沿いの主要な選帝候スペース3箇所を勢力下においた。それはケルン(Cologne)、マインツ(Mainz)、トリーア(Trier)である。

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第2Turn終了時のプロテスタント勢力圏


3Turn(1528-1531年)

イメージ 7イメージ 12ウルリッヒ・ツウィングリとマルティン・ブセール(Bucer[2])が南ドイツ語圏で論文攻勢を実施。要域アウグスブルク(Augsburg)をプロテスタントの勢力下においた。これにより6箇所ある選帝候スペースの全てをプロテスタントの勢力圏とした。
さらに論文攻勢で南ドイツ語圏のリンツ(Linz)、グラーツ(Graz)を勢力下としたプロテスタント陣営は、さらにカトリック陣営に対して論戦を挑んだ。公開討論会で「私は立つ」と叫んでルターが立つと、カトリック陣営の論客ジェローム・アレンダー(Aleander[2])を論戦で圧倒した。ここでも不甲斐ない敗北を喫したアレンダーに対し、ローマ法王は破門を言い渡した。この公開討論会によってストラスブール(Strasburg)、ザルツブルグ(Salzburg)がプロテスタントに靡いた。ドイツ語圏で残るカトリックの牙城はウィーン(Vienna)だけになってしまう。
イメージ 82度に渡る論戦の敗北を受けて焦るカトリック陣営は、ライプチヒで公開討論会を開催し、プロテスタント陣営に対して反撃を試みる。この討論会でカトリック陣営はヨハン・エックを再び論壇に立ててきた。プロテスタント陣営はエース不在(ルターは先ほどの「私は立つ」カードによって使用済状態)の状況下でイングランド出身のウィリアム・ティンダル(Tyndale[2])とスイス出身のハインリッヒ・ブリンガー(Bullinger[2])の2人で討論会に挑んだ。負ければ火炙りの刑にも成りかねないという緊張感の中、ティンダルとブリンガーはカトリック側論客と互角の論戦を展開。カトリック陣営の理論攻勢を何とか切り抜けた。


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