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以前から興味を持っていた「Here I Stand」(GMT)について、遂にプレイする機会を得ました。
担当はプロテスタント。ゲームタイトル「Here I Stand」を叫んだマルティン・ルターが率いる陣営なので、ある意味主役と言っても良い陣営です。

ゲーム展開

前回までの展開は --> こちら

4Turn(1532-1535年)

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イメージ 8次第に勢力を拡大しつつあるプロテスタント勢力に対し、神聖ローマ皇帝カール5世はカトリック教会の要求を呑む形で教会財産の返還をプロテスタント諸侯に求めた。これに対して財産を奪われることを恐れたプロテスタント諸侯は、反皇帝同盟を結成した。これがシュマルカルデン同盟と呼ばれるもので、これによってプロテスタント勢力は、これまでのような信仰のみの活動ではなく、軍事面や経済面での活動にも巻き込まれることになっていく。
イメージ 7シュマルカルデン同盟によって2人の軍事指揮官ザクセン公ヨハン・フリードリッヒ(John Frederick 0-6)とフリップ・ヘッセ(Phillip of Hesse 0-6)を得たプロテスタント勢力は、選帝候スペースを守るべく急遽傭兵隊を拡張した。
しかし時既に遅し。神聖ローマ皇帝カール5世は、その弟フェルディナンド(Ferdinand 1-6)らが率いる計10戦力の大軍をプロテスタント諸侯に対する攻撃に振り向けてきた。要域アウグスブルクが神聖ローマ皇帝軍の攻撃を受けて壊滅。さらにフェルディナンドはライン川沿いに進んでマインツが神聖ローマ皇帝軍の包囲攻撃を受けるにいたる。
イメージ 9シュマルカルデン側(プロテスタント)はザクセン公ヨハン・フリードリッヒ公に6戦力の傭兵隊を授けてマインツ救援に向かわせるが、マインツ付近に布陣したフェルディナンドの巧みな奇襲攻撃を受けて無残な敗北を喫してしまう(マインツの戦い)。野戦軍を退けた神聖ローマ皇帝軍はマインツを陥落させた。フリップ・ヘッセも神聖ローマ帝国の捕虜となってしまう。

同じころ、どういうわけだかイングランドでプロテスタントが爆発的に普及する。ロンドン(London)を中心に、プリマス(Plymouth)、ブリストル(Bristol)、シュルーズベリー(Shrewsbury)がプロテスタント勢力によって信仰上は支配された。

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5Turn(1536-1539年)

慣れないことをするものではない。
先のTurn、軍事行動に手を染めたばかりに貴重な選帝侯スペース2個を失ったプロテスタント陣営は、ここから再び信仰上の争いに転化していく。

イメージ 11まず英語圏での新約聖書の翻訳を進める。これに活躍したのがウィリアム・ティンダルとマイルス・カバーダール(Coverdale[2])の2人で、このTurnに新約聖書の翻訳が完了した。そのためにプロテスタントはイングランド島全域を席巻し、同地におけるカトリック勢力をほぼ駆逐した。先のTurn、ロンドンに登場したプロテスタント陣営3人目のパフォーマー、トマス・クランマー(Cranmer[3])の影響も大きかった。

イメージ 10欧州大陸は、ラテン語圏でのプロテスタントの布教活動が始まった。先のTurn、プロテスタント陣営第4のパフォーマーとして、スイスのジュネーブにジャン・カルヴァン(Calvin[4])が登場する。またピエル・ロベール・オリベッタ (Olivetan[1])は新約聖書のラテン語翻訳を進めていき、このTurnに完成に漕ぎ着けた。そのために東フランス全域ではプロテスタント旋風が吹き荒れたが、同方面ではカトリック側も論文攻勢を展開。両陣営で一進一退の攻防が続く。

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6Turn(1540-1543年)

ルターが得意の宗教論争をヴェネツィア出身のカトリック系神学者ガスパロ・コンタリニ(Contarini[2])に対して挑んだ。「私は立つ」。コンタリニ破門によるVP獲得を狙った活動だったが、コンタリニの巧みな論法によって逆にルターはタジタジ。この論戦はカトリック側の勝利に終わり、ドイツ語圏でのプロテスタント勢力が一部カトリックに改心してしまう。失意のルターは、そのTurnに死亡。ルターに代わってジャン・カルヴァンが新しいプロテスタントの実質的リーダーとなった。しかしそのカルヴァンがカトリック派の陰謀によって一時的に追放になり、そこからプロテスタントにとって苦難が始まる。

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イングランドで勢力を拡大しつつあったプロテスタント陣営は、カトリック側の反撃によって分断されていく。プロテスタント革命の本丸ともいうべきドイツ語圏にもカトリックの魔の手が迫る。ドイツ農民戦争が発生し、不穏化したドイツ語圏内ではローマ法王の息のかかったカトリックの司教達が布教活動を行い、レゲンスブルグ、ニュールンベルグがカトリックに靡いていく。

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7Turn(1544-1547年)

イメージ 13カトリックによる宗教攻勢がなおも続く。スペインに生まれ、軍人生活の後に宗教家を道を進んだイグナチオ・デ・ロヨラ(Loyola[4])は、パリ大学の学友らとイエズス会を設立した。イエズス会といえば、日本に布教にやってきたフランシスコ・ザビエルが有名だが、残念ながらザビエルはゲームに登場しない。

何はともあれ、イエズス会の活動はイングランドで本格化し、ヨークとロンドンにイエズス会の事務所が設立された。イエズス会の事務所を拠点に英語圏でのカトリック教会の反撃が始まる。余談だが、プロテスタントの司祭達は言語圏による制約を受けて、例えばルターはドイツ語圏のみ、カルヴァンはラテン語圏といった形で積極的に活動できる範囲が限定されている。それに対してカトリックの司祭は言語圏の制約を受けない。これは大学に学び高度な学識を身につけたカトリック側司祭と、地元に土着してあくまでも「地域土着」を貫くプロテスタント側司祭の違いといった所か。

時を同じくして北東イタリアのトレントにてトレントの公会議が開かれた。この会議は元々はプロテスタントとカトリックの宥和を目指して神聖ローマ帝国皇帝カール5世が開催を意図したものだったが、結局はカトリックによるプロテスタントに対する反宗教改革に終始した。この会議にカルヴァン、クランマーといったエース級を温存し、2戦級の論客を投入したプロテスタント陣営は、カトリック側との論戦に大敗。この結果を聞いたイングランドでは、プロテスタント側は4スペースを失う。

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イメージ 9神聖ローマ帝国による軍事面でのプロテスタントに対する圧力も再び強まってきた。フェルディナンド(1-6)らが率いる神聖ローマ帝国軍10戦力がプロテスタント側城塞都市ケルン(Colonge)に対して包囲攻撃を仕掛けてきた。年単位に渡る激しい攻城戦の末、ケルンは陥落。プロテスタントはまたもや拠点を失った。

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イメージ 15プロテスタントの反撃はラテン語圏で実施された。ピエル・オリベッタらが聖書のラテン語全訳版を完成させ、東フランス一帯でプロテスタントの布教に成功した。さらにカルヴァンは「キリスト教綱要」と呼ばれる著作を完成させた。これは1500ページにも及ぶ大著で、この著作によりプロテスタントが理論的に完成されたといわれている。「キリスト教綱要」が発表されたことによりフランスにおけるプロテスタント勢力は一気にパリ近郊まで広がってきた。

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