以前から興味を持っていた「Here I Stand」(GMT)について、遂にプレイする機会を得ました。
担当はプロテスタント。ゲームタイトル「Here I Stand」を叫んだマルティン・ルターが率いる陣営なので、ある意味主役と言っても良い陣営です。
担当はプロテスタント。ゲームタイトル「Here I Stand」を叫んだマルティン・ルターが率いる陣営なので、ある意味主役と言っても良い陣営です。


しかし時既に遅し。神聖ローマ皇帝カール5世は、その弟フェルディナンド(Ferdinand 1-6)らが率いる計10戦力の大軍をプロテスタント諸侯に対する攻撃に振り向けてきた。要域アウグスブルクが神聖ローマ皇帝軍の攻撃を受けて壊滅。さらにフェルディナンドはライン川沿いに進んでマインツが神聖ローマ皇帝軍の包囲攻撃を受けるにいたる。

同じころ、どういうわけだかイングランドでプロテスタントが爆発的に普及する。ロンドン(London)を中心に、プリマス(Plymouth)、ブリストル(Bristol)、シュルーズベリー(Shrewsbury)がプロテスタント勢力によって信仰上は支配された。

5Turn(1536-1539年)
慣れないことをするものではない。先のTurn、軍事行動に手を染めたばかりに貴重な選帝侯スペース2個を失ったプロテスタント陣営は、ここから再び信仰上の争いに転化していく。



6Turn(1540-1543年)
ルターが得意の宗教論争をヴェネツィア出身のカトリック系神学者ガスパロ・コンタリニ(Contarini[2])に対して挑んだ。「私は立つ」。コンタリニ破門によるVP獲得を狙った活動だったが、コンタリニの巧みな論法によって逆にルターはタジタジ。この論戦はカトリック側の勝利に終わり、ドイツ語圏でのプロテスタント勢力が一部カトリックに改心してしまう。失意のルターは、そのTurnに死亡。ルターに代わってジャン・カルヴァンが新しいプロテスタントの実質的リーダーとなった。しかしそのカルヴァンがカトリック派の陰謀によって一時的に追放になり、そこからプロテスタントにとって苦難が始まる。
イングランドで勢力を拡大しつつあったプロテスタント陣営は、カトリック側の反撃によって分断されていく。プロテスタント革命の本丸ともいうべきドイツ語圏にもカトリックの魔の手が迫る。ドイツ農民戦争が発生し、不穏化したドイツ語圏内ではローマ法王の息のかかったカトリックの司教達が布教活動を行い、レゲンスブルグ、ニュールンベルグがカトリックに靡いていく。

7Turn(1544-1547年)

何はともあれ、イエズス会の活動はイングランドで本格化し、ヨークとロンドンにイエズス会の事務所が設立された。イエズス会の事務所を拠点に英語圏でのカトリック教会の反撃が始まる。余談だが、プロテスタントの司祭達は言語圏による制約を受けて、例えばルターはドイツ語圏のみ、カルヴァンはラテン語圏といった形で積極的に活動できる範囲が限定されている。それに対してカトリックの司祭は言語圏の制約を受けない。これは大学に学び高度な学識を身につけたカトリック側司祭と、地元に土着してあくまでも「地域土着」を貫くプロテスタント側司祭の違いといった所か。
時を同じくして北東イタリアのトレントにてトレントの公会議が開かれた。この会議は元々はプロテスタントとカトリックの宥和を目指して神聖ローマ帝国皇帝カール5世が開催を意図したものだったが、結局はカトリックによるプロテスタントに対する反宗教改革に終始した。この会議にカルヴァン、クランマーといったエース級を温存し、2戦級の論客を投入したプロテスタント陣営は、カトリック側との論戦に大敗。この結果を聞いたイングランドでは、プロテスタント側は4スペースを失う。




