「信長最大の危機」については説明は不要であろう。1570年(天正元年)の金ヶ崎からの撤退戦から始まる織田信長による平定戦を1Turn=半年、1ユニット=1500~2000名、ポイントトウポイントシステムで再現する。
今回、この傑作ゲームを対戦する機会に恵まれた。ルールは上級ルール・選択ルールを全て採用した。私は織田側を担当する。
今回、この傑作ゲームを対戦する機会に恵まれた。ルールは上級ルール・選択ルールを全て採用した。私は織田側を担当する。
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12Turn(天正3年)
天正2年の暮れは信長公にとって憂慮すべき年越しとなったが、年が明けるや否や、直ちに行動を起こした。信長公自らが率いる15戦力が京に乱入。朝倉義景と足利義昭の連合軍9戦力に襲い掛かった。「奇襲」カードによって機先を制した織田方は足利・朝倉連合を終始圧倒。殆ど損害なしに敵を殲滅した。朝倉義景は討死。足利義昭は遠く鞆へ逃れ、ここに約240年続いた室町幕府は事実上壊滅した。
13Turn(天正4年)
京を取り返した信長公であったが、休んでいる暇はない。さらに周囲の敵を撃破し、畿内一帯を平定しなければならない。それにしても京に暗躍していた足利義昭公を追放できたのは大きかった。これで京周辺の治安が安定し、浮いた兵力を他方面に展開できるようになったからである。まず柴田勝家、明智光秀らが率いる12戦力が北近江の浅井本城である小谷城を囲んだ。浅井の当主である浅井長政は野戦の名手であり、2倍程度の敵が相手であれば十分に勝機があったが、3倍の敵相手だと分が悪い。城に籠って時間稼ぎを図った。
14Turn(天正4年)
信長公自ら率いる8戦力が大和郡山に南下。城を囲む本願寺勢を攻撃する。本願寺勢は士気こそ高く籠城戦では侮り難い敵であったが、野戦においては指揮の統一を欠き、統率力に勝る織田勢の敵ではない。一方的に叩かれた本願寺勢は信貴山に向けて後退していった。小谷を囲む織田勢は、城内に対して調略戦を実施。時間はかかるが、全く効果がない訳ではない。落伍兵が少しずつ増えていき、小谷を守る浅井勢の兵力を弱めていった。また柴田勝家率いる別働隊がさらに北上。金ヶ崎から越前領内になだれ込む。越前府中にまで前進した柴田隊は、朝倉の本拠である一乗谷を指呼の元に捉えた。
17Turn(天正6年)
朝倉が滅亡した。越前一帯を制覇した織田勢は主力を畿内方面に戻し、いよいよ仇敵石山本願寺との決戦に備える。一方謙信死亡後、喪に付していた上杉勢は、上杉景勝の元に行動を再開。能戸七尾城に籠る畠山義隆を囲んだ。西国の雄、毛利家も動いた。山陰道からは吉川元春率いる8戦力が但馬国に乱入。出石城を囲んだ。
山陽道からは毛利輝元、小早川隆景、そして宇喜多直家率いる16戦力が姫路を攻める。
山陽道からは毛利輝元、小早川隆景、そして宇喜多直家率いる16戦力が姫路を攻める。
18Turn(天正6年)
茨木に残る三好、別所連合8戦力に対し、織田信長麾下の24戦力が襲い掛かった。兵力で3倍を誇る織田軍に対して三好・別所連合は後退を選択したが、織田軍の猛追がそれを許さなかった。この茨木の会戦で三好、別所連合は壊滅。三好三人衆は悉く討ち死にした。忘れかけていた武田戦線だが、徳川家康率いる8戦力が、いよいよ武田の本拠地である甲府躑躅ヶ崎館に襲い掛かった。その時の武田家は、当主であった武田信玄公は既に病死し、後継者である武田勝頼が指揮をとっていた。兵力で勝る徳川勢は余裕で甲府入りしたが、そこで武田が意地を見せた。
「待ち伏せ」カードによって徳川の機先を制したのである。不利な状況から徳川隊に一撃を加えた武田勢は家康隊を追い返した。半数の兵力を失った徳川隊は後方に向けて後退するしかなかった。
「待ち伏せ」カードによって徳川の機先を制したのである。不利な状況から徳川隊に一撃を加えた武田勢は家康隊を追い返した。半数の兵力を失った徳川隊は後方に向けて後退するしかなかった。
なおこのTurn、能戸七尾城が陥落した。
19Turn(天正7年)
織田軍はいよいよ仇敵石山本願寺に対する攻勢を開始する。信長公自らが率いる16戦力が石山城を囲んで猛攻する。また明智光秀率いる4戦力は福島城を攻め、羽柴秀吉率いる4戦力が有岡城を占領した。これは信長公の連絡線を確保するためである。しかし石山本願寺は強かった。自らも2戦力を失いながらも織田軍の5戦力を葬ったのである。石山城の頑強さに舌を巻く織田軍。
北陸路からは上杉景勝率いる上杉軍が急進してくる。先に七尾城を落した彼らは、一向宗の助けを借りて加賀国内を西に向かい、越前に乱入した。北ノ庄を囲む上杉軍。それに対して織田軍は主戦兵力を畿内戦線に振り向けているため、兵力を各城郭にばら撒いて時間稼ぎするしかない。早く家康が武田を片付けてほしいと思う信長公なのであった。
20Turn(天正7年)
石山本願寺危うしと見た毛利軍は山陽道を急進。石山救援に向かう。毛利輝元以下、毛利・宇喜多連合軍16戦力が野田福島に到着。守備隊を蹴散らし、野田福島を奪回した。石山城まではあと一歩である。21Turn(天正8年)
「罠にかかった」ほくそ笑む信長公の反応は素早かった。
石山の抑えを滝川一益に任せた信長公は自ら16戦力を率いて野田福島に着陣する。また有岡から迂回した柴田勝家麾下の4戦力が花隈を攻めて毛利軍の後方を遮断。トドメに鉄甲船が河内灘に浮かび、海からの連絡線を遮断した。
完全に包囲された毛利・宇喜多連合軍。兵力的には織田軍と同等だったが、元より勝ち目はなかった。
後に「第2次野田・福島の戦い」と呼ばれる野戦で毛利・宇喜多連合軍は壊滅的な打撃を被り、山陽道から石山を救援する手段は失われた。
この時点で反織田方プレイヤーは敗北を認めて終了。織田方の勝利が確定した。
ちなみにここまでの所要時間はセットアップを含めて4時間強であった。
ちなみにここまでの所要時間はセットアップを含めて4時間強であった。