「信長最大の危機」については説明は不要であろう。1570年(天正元年)の金ヶ崎からの撤退戦から始まる織田信長による平定戦を1Turn=半年、1ユニット=1500~2000名、ポイントトウポイントシステムで再現する。
今回、この傑作ゲームを対戦する機会に恵まれた。最初の対戦では私が織田方を担当。野田・福島で毛利主力を壊滅させ、勝利を収めた。
前回まで-->こちら
再戦
前回の対戦が相手プレイヤーにとって不本意な内容であったことは容易に想像できる。しかも時間はまだまだあった。「再戦しましょう」という声が上がっても不思議ではない。陣営を変えることも考えたが、相方が反織田陣営を希望したので、同じ陣営で再戦することになった。序盤(1~5Turn)
前回とは違って今回は織田側のチット引きが好調であった。信貴山の松永久秀は距離が通りので見捨てたが、茨木に来寇した三好勢は信長公自らが出撃してこれを撃退。三好軍主力に大打撃を与えていた。
さらに清州の柴田勝家は織田・徳川連合軍で伊勢長島を包囲。早くも壮絶な強襲戦を開始している。
第3Turnには信長公自らが率いる8戦力が南近江箕作城で六角氏を包囲し、僅か1回の強襲でこれを陥落させていた。さらに佐和山城を囲んだ羽柴秀吉、滝川一益は浅井領に乱入。横山城を滝川一益麾下の4戦力が強襲し、さらにその北方小谷城(浅井の本城)には琵琶湖西岸を突進してきた織田方無名兵4戦力が強襲を仕掛けていた。これによって未だ金ヶ崎で対陣中の浅井長政主力(1年間金ヶ崎で何をやっていたんだが・・・)は戦わずして連絡線切れとなった。
浅井・朝倉連合は小谷に向けて反撃に転じ、一度は織田方無名兵士を撃破、小谷城の包囲を解囲した。しかし六角を落した信長公自らが北近江の戦陣に着陣するに及んで小谷防衛線を放棄。一部の兵を残して浅井・朝倉連合は金ヶ崎に引いていった。
中盤(6~8Turn)
いよいよ武田が参戦してきた。武田が本格参戦する前に浅井・朝倉を壊滅させて補充能力を強化したい。小谷を落した信長公は、金ヶ崎に進み、浅井・朝倉の残存部隊を捕捉した。兵力に勝る織田軍は浅井・朝倉連合軍を撃破。浅井長政は討死して浅井は壊滅。朝倉義景も負傷して前線を退いた。
一方甲斐、信濃戦線では、伊那路を進む武田信玄に対し、長島一向宗をなで斬りにして後清州に待機中だった柴田勝家が浜松の戦線に着陣してきた。柴田勢は休む間もなく東海道を東進。駿府から久能山に進んで武田領を侵食していく。
この動きに脅威を覚えた武田陣営では動揺が走った。彼らの一人、小山田信茂が麾下の4戦力を率いて織田方に寝返ったのである。伊那路を小山田信茂に抑えられ、南下の道を閉ざされた武田信玄。
さらに遠く甲府には柴田勝家が迫ってきた。急いで取って返そうとする武田信玄であったが、チットを引かなければ動き様ががない。結局柴田勢は天正元年夏に甲府躑躅ヶ崎館は落城。本拠地を抑えられた武田信玄主力は、一挙に連絡線切れとなってしまう。
この動きに脅威を覚えた武田陣営では動揺が走った。彼らの一人、小山田信茂が麾下の4戦力を率いて織田方に寝返ったのである。伊那路を小山田信茂に抑えられ、南下の道を閉ざされた武田信玄。
さらに遠く甲府には柴田勝家が迫ってきた。急いで取って返そうとする武田信玄であったが、チットを引かなければ動き様ががない。結局柴田勢は天正元年夏に甲府躑躅ヶ崎館は落城。本拠地を抑えられた武田信玄主力は、一挙に連絡線切れとなってしまう。
時を同じくして朝倉の本拠地である一乗谷が陥落した。それも強襲戦ではなく調略戦によって。最後が調略によって陥落するあたりが如何にも朝倉らしい、という声がプレイヤーから上がった。
後半(9~16Turn)
今から思えば、6~8Turn、つまり元亀から天正に変わろうとしていた時期が勝敗を決定づけた時期といえよう。武田勝頼(信玄の死は天正2年)が徳川家康の追撃を受けて南信濃高遠の城外で壮烈な最期を遂げたのが天正3年の末。浅井・朝倉、そして武田が滅んだことによって兵力の余裕を得た織田方は、いよいよ畿内平定に乗り出す。
まず羽柴秀吉が伊勢亀山から伊賀に入り、伊賀上野を包囲する。伊賀上野攻略の目的は、岐阜-京間の連絡線を新たに確保すること。特に近江国内を経由しない連絡線を確保することにより、近江で一揆がおこった場合にも畿内方面への連絡線を確保できるようになった意義は大きい。
続いて山陰道を進む滝川一益隊は、丹波亀山から黒井(現在の福知山)に進み、そこの小豪族を調略戦によって支配下においた。さらに滝川一益は波多野秀治が守る八上城を包囲する。八上城攻略の目的は丹波経由で摂津-山科間の連絡線を確保することにある。
その時、足利義昭の誘いに乗った丹波亀山の織田軍守備隊が反乱を起こした。これによって滝川一益は後方連絡線を断たれて窮地に陥ってしまう。直ちに反応した織田方は丹波亀山城を攻めてこれを陥落。滝川一益への連絡線を回復する。八上城を落し、波多野秀治を切腹に追い込んだ滝川勢は、援軍を得て摂津有岡城を囲んだ。そして有岡城陥落。新たな連絡線を確保した織田方は、石山攻撃に向かうための地盤を整えた。
ほぼ時を同じくして足利義昭を追放。ここに約240年続いた室町幕府は事実上滅亡する。
西からは巨大な兵力を有する毛利が動いた。北からは山陰道経由で吉川元春が進み、南からは毛利輝元、小早川隆景らは進む。
吉川元春は出石から黒井を攻め、毛利輝元本隊は姫路から加古川に進んできた。
西からは巨大な兵力を有する毛利が動いた。北からは山陰道経由で吉川元春が進み、南からは毛利輝元、小早川隆景らは進む。
吉川元春は出石から黒井を攻め、毛利輝元本隊は姫路から加古川に進んできた。
一方畿内では、大和郡山に進んできた雑賀孫一麾下の雑賀・本願寺連合軍を信長公自ら率いる16戦力がこれを捕捉した。猛烈な攻撃によって文字通り雑賀・本願寺勢は壊滅。雑賀孫一も壮烈な討死を遂げる。
引続いて京に舞い戻った信長公は丹波路を進み、黒井を囲む吉川元春を捕捉した。ここで「奇襲」カードを使った織田勢は吉川隊を包囲殲滅。吉川元春自身は重傷を負って辛くも戦場を離脱した。
本作をプレイするのは色々な意味で久しぶりだが、やはり面白い。カードを引くときのドキドキ感、チットを引くときのドキドキ感は相変わらず。なんといっても織田信長の後半期を盤面で再現できる点が良い。電脳ゲームではないので武将を並べて遊ぶような楽しみ方は難しいが、それはそれで良い。我々にとっては羽柴秀吉や明智光秀、柴田勝家クラスが登場するだけで十分。岩成友通がユニット化されていないとか、徳川四天王がユニット化されていないとか、どうでもよい話である。
最後に今回のプレイを通じて下名が重要と感じた点を列挙しておきたい。(織田方視点で)
・大津の守り方が重要である。大津に武将なしの一般兵だけを配置するのは自殺行為である。足利義昭の調略戦が成功すると、京以西の全軍が補給切れになるからだ。しかし大津を空にするのも危険。何故なら足利義昭が反旗を翻した際、大津に籠られて以下略である。比較的安全なのは武将つきの2ユニットで大津を守ること。ただし調略されるリスクは残るが・・・。
・側面を開けたまま主力部隊を武将を突出させるのは危険である。織田方でプレイする際には反織田方のワンツーパンチを常に警戒すべし。
・伊勢長島は第1Turnに攻めて、最悪でも包囲すべし
・初期配置で徳川4ユニットを岡崎に配置し、長島攻めに加わるべし。長嶋攻めの損害は徳川に優先的に適用し、補充で浜松に戻して浜松防衛に振り向けるべし。
・延暦寺は包囲すべし。ただし攻めてはダメ
・浅井長政が小谷城を離れたら織田方にとってはラッキー。佐和山又は延暦寺経由で小谷を攻めて補給を断つべし
・朝倉義景の突出も危険。金ヶ崎より先に進む際は熟考を要する。
・織田方にとって一番信用できるのは、「裏切ってきて武将」「手元に裏切りカードを持っている武将」である。また徳川家康も信用できる。徳川の本領(浜松、吉田、岡崎)が安泰な限り、寝返ることはないからだ。それ以外の武将は可能な限り2名以上1組で行動すべし。
・側面を開けたまま主力部隊を武将を突出させるのは危険である。織田方でプレイする際には反織田方のワンツーパンチを常に警戒すべし。
・伊勢長島は第1Turnに攻めて、最悪でも包囲すべし
・初期配置で徳川4ユニットを岡崎に配置し、長島攻めに加わるべし。長嶋攻めの損害は徳川に優先的に適用し、補充で浜松に戻して浜松防衛に振り向けるべし。
・延暦寺は包囲すべし。ただし攻めてはダメ
・浅井長政が小谷城を離れたら織田方にとってはラッキー。佐和山又は延暦寺経由で小谷を攻めて補給を断つべし
・朝倉義景の突出も危険。金ヶ崎より先に進む際は熟考を要する。
・織田方にとって一番信用できるのは、「裏切ってきて武将」「手元に裏切りカードを持っている武将」である。また徳川家康も信用できる。徳川の本領(浜松、吉田、岡崎)が安泰な限り、寝返ることはないからだ。それ以外の武将は可能な限り2名以上1組で行動すべし。
長々と書いてきたが、機会を見つけて再戦してみたい作品である。