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8月の山科会、3番目の対戦アイテムはGJの傑作「信長最大の危機」である。
先の「フリードリヒ最大の危機」の元になったゲームで、両者を比較すると様々な意味でデザインスタイルが変化しているのが理解できる。

先の「フリードリヒ最大の危機」でフリードリヒプレイヤーに見事な指揮を見せつけられたので、今回はお返しとばかり下名が信長を担当した。

1Turn(元亀元年)

イメージ 13このゲームは金ヶ崎からの信長軍の撤退より開始される。最初に1の目を出してしまったので、信長公は僅かな手勢を引き連れて京に逃げ帰る他なかった。それでも織田方は調略戦によって亀山の小豪族を支配し、さらに佐和山を守る浅井長政の手勢にも調略戦を仕掛けて、これを寝返らせることに成功した。

伊勢長島では柴田勝家率いる織田・徳川連合軍計8戦力が長島城に籠る本願寺勢を囲み、総攻撃を加えていたが、城の守りは固く、織田・徳川軍は苦戦を強いられていた。

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3Turn(元亀2年)

イメージ 14雑賀孫一率いる雑賀勢と本願寺勢との連合軍が大和の信貴山城を攻撃した。信貴山を守る松永久秀は奮戦の末玉砕。戦国の英傑松永久秀の壮烈な最期であった。

伊勢方面では織田・徳川連合軍が伊勢長島城を強襲。さしもの一揆勢も包囲下の連続攻撃には耐えられず、遂に城を明け渡した。織田方に投降した一揆勢は、信長公の命により悉くなで斬りにされたという。

イメージ 19近江戦線では、南近江の雄、六角氏が信長公に下った。こちらでは信長公は降伏してきた六角xxを暖かく迎え、以後織田軍団の一翼として重宝していくことになる。また長島より転進してきた柴田勝家公率いる1個軍団は北近江の横山城を強襲し、これを落城せしめていた。

摂津の陣では、四国より攻め上がってきた三好勢に対し、信長公自らが率いる1個軍団が出撃。三好勢と信長公の激しい戦いの末、三好方は総崩れとなって撤退。三好三兄弟も戦いの中で行方不明となってしまう。

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6Turn(元亀3年)

続く2Turnは大きな動きがなかったが、第6Turnになって遂に武田信玄が動いた。大兵力が東海道を東に向かう。大兵力で掛川城を囲む武田勢に対し、浜松に本拠を構える徳川家康は脅威を覚えた。

イメージ 15一方織田勢は信長公直率の2個軍団16戦力が浅井長政の本拠小谷城を囲んだ。大兵力で攻めかける織田勢に対し、浅井勢も奮戦したが、奮戦及ばず遂に玉砕。浅井長政は切腹。お市の方は3人の娘たちと共に信長公の元に下った。

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7Turn(天正元年)

信長公の快進撃は続き、金ヶ崎を落城せしめて朝倉勢を退却せしめた。


8Turn(天正元年)

イメージ 16しかし危機は東からやってきた。武田信玄率いる1個軍団が駿河を席巻。掛川、二俣と立て続けに落城せしめていた。さらに武田勢は浜松城を囲む。兵力に劣る徳川勢は浜松に籠って援軍を待つ他、手はなかった。

さらに美濃と信濃の境でも危機が迫る。土岐城を囲んだ山県昌景が調略戦によって土岐城を陥落させていた。土岐城の前面には織田方の本国である美濃が無防備のまま横たわっている。知らせを受けた信長公は使者に対して呟いた。
「あー、やばやば」

しかしそこは信長公。越前にいた信長公は越前方面を羽柴、明智らの諸将に任せ、自らは親衛隊を率いて美濃に駆け戻った。そして土岐城付近で山県昌景を捕捉した信長公はこれに痛打を加えて撃退。山県勢を東方に追い払った。

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9Turn(天正2年)

イメージ 17頃合い良し。織田・徳川連合軍が浜松を囲む武田勢に反撃の狼煙を上げた。まず柴田勝家率いる織田・徳川連合軍が浜松に突入。それに呼応して城内から徳川家康が出撃する。信長公は家康に対して「方面軍大将」の肩書を授けた。これで信玄との間に指揮能力の差をなくした家康公は、信玄に倍する兵力でこれを叩く。精強を誇った武田勢であったが、三河武士からなる徳川勢もまた強い。そして兵力は完全に織田・徳川方が有利にたっている。後に三方ヶ原の合戦と呼ばれる野外戦で、武田勢はその戦力の大半を失い、信玄公がほうほうの体で東に向けて後退するしかなかった。

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イメージ 18一方越前の戦線では兵力を整えた朝倉勢1個軍団が羽柴、明智らが守る金ヶ崎に猛攻を加えてきた。兵力はほぼ同数。指揮能力では総大将を有する朝倉勢が有利であったが、羽柴らは奮戦して朝倉を撃退した。朝倉義景自身も重傷を負ったこの戦いは、後に金ヶ崎の合戦と呼ばれることになる。この戦いで朝倉勢の野戦軍はほぼ壊滅。織田方の目の前には無防備の越前平野が広がっていた。

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11Turn(天正3年)

朝倉が滅んだ。羽柴、明智らの兵力が朝倉の本拠地である一条谷に攻め込んだのである。先に金ヶ崎で主力野戦軍を失った朝倉に勝機はなく、一乗谷は陥落。朝倉義景も壮烈な最期を遂げた。

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イメージ 16同じ頃、駿河の久能山では武田信玄率いる武田軍の残存野戦軍が徳川家康公の攻撃を受けて壊滅した。勢いに乗る徳川軍はそのまま山道に入って甲府の躑躅ヶ崎館を包囲。一撃の元にこれを陥落せしめていた。躑躅ヶ崎館で戦傷からの回復を図っていた信玄公であったが、最後は徳川麾下の雑兵によって討ち取られたという。

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13Turn(天正4年)

イメージ 20西国の雄、毛利氏が動いた。信長公は頃合い良しとみて足利義昭を追放。さらに柴田・羽柴らが率いる2個軍団16戦力を比叡山に向けて進発せしめた。延暦寺を囲んだ織田軍は、四方から総攻撃を仕掛けた。圧倒的な兵力を有する織田軍は延暦寺の僧兵達を圧倒した。寺から逃げ出そうとする僧侶や僧兵達は悉くなで斬りにされてしまう。

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14Turn(天正4年)

イメージ 21将軍追放、さらにそれに続く比叡山延暦寺の焼打ちは世間を震撼させた。そしてそれは古い体制を支持する層の強烈な反発を生むこととなる。
最初に動きを見せたのが「越後の龍」上杉謙信である。無類の軍事的才能を誇り、強力な越後兵を率いる上杉軍の強さは神話的でさえあった。春日山を進発した上杉軍は越中富山城を包囲。これを一撃の元に陥落させていた。恐るべき上杉謙信。

西方から近づく毛利軍も脅威を示しつつあった。吉川元春率いる1個軍団8戦力が山陰道から接近。丹後宮津城を調略戦で陥落させた。また小早川隆景率いる1個軍団8戦力が播摩上月城を包囲。これを落城せしめていた。

これら外敵に対し、信長公は麾下の兵力を京に集結せしめ、内線運動でこれを各個撃破する体制を取る。

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15Turn(天正5年)

イメージ 22越中一帯を支配した上杉軍は能登に侵攻。七尾城を拠点とする畠山義隆を囲んだ。畠山勢は無敵の上杉軍を相手に奮戦したが、兵力の差は如何ともし難く、畠山義隆は切腹。七尾城は落城を余儀なくされてしまう。

一方の織田軍は荒木村重麾下の1個軍団8戦力で野田福島を攻撃。ここを守る三好勢を撃破して野田福島を占領した。今、織田方の目の前に「茅渟の海」と呼ばれる河内灘の広大な海が青々と広がっている。

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