GJ#36号「真田軍紀」をプレイした。
このゲームは、1614~15年における大坂の陣をテーマとしたシミュレーションゲームである。
史実の大坂の陣は大阪城周辺の比較的狭い地域での戦いとなったが、本作は西は姫路城から東は尾張東部まで含んでおり、大坂方は史実と異なって畿内一円を舞台とした大規模機動戦闘を実施できる。そのあたり、歴史的ゲームというよりは、半仮想戦に近いゲームかもしれない。
このゲームは、1614~15年における大坂の陣をテーマとしたシミュレーションゲームである。
史実の大坂の陣は大阪城周辺の比較的狭い地域での戦いとなったが、本作は西は姫路城から東は尾張東部まで含んでおり、大坂方は史実と異なって畿内一円を舞台とした大規模機動戦闘を実施できる。そのあたり、歴史的ゲームというよりは、半仮想戦に近いゲームかもしれない。
今回、下名は西軍を担当した。
1Turn(10/7)
序盤の西軍は、浪人衆を集めた打撃部隊を4個編成できる。真田幸村(5-6、戦闘力-行動力、以下同じ)、後藤又兵衛(4-5)、長宗我部盛親(4-4)、明石全登(4-5)のそれぞれが率いる野戦部隊だ。兵力はそれぞれ7500~10000名(3~4ユニット)からなる。彼らは3群に分かれて大坂城を進発。それぞれの攻略目標に迫った。大和路に進んだ長宗我部隊は大和の国の入り口である龍田城(2-1 城の場合は強度と耐久力、以下同じ)を攻撃。これを占領していた。また淀川沿いを進んだ後藤隊と明石隊計2万弱は、片桐且元(0-0)が籠る茨木城(2-2)を囲む。圧倒的兵力の西軍の前に片桐且元は奮戦するも、最後は討死して果てた。
2Turn(10/10)
淀川戦線から南下してきた後藤隊が長宗我部隊と合流。大和の要域郡山城(3-3)を包囲。強襲攻撃を仕掛ける。しかし郡山城を守る桑山一重(0-0)は奮戦して西軍の攻撃を寄せ付けない。西軍の損害が3戦力に達した時点で西軍は強襲攻撃を諦めた。この時点で西軍全体で被った損害は9戦力に達し、初期配置戦力の半数以上がキズものにされた形となる。3Turn(10/13)
このTurnに淀城(2-1)と伏見城(3-3)が落城する。西軍先鋒は遠く近江国の膳所にまで到達し、膳所城(4-6)を囲む。また別の一部隊は伊賀上野に達し、上野城(4-8)を囲んでいる。畿内では尼崎、高槻、二条、郡山、丹波亀山が西軍部隊に包囲された形になっている。4Turn(10/16)
紀伊国から出撃し国境で策動している浅野長晟(1-0)を真田幸村が捉えた。オーバーランで損害を与えた後、秋山城(2-2)に籠った所で毛利勝永(3-4)隊と合流した真田隊がこれを包囲。強襲攻撃の末、これを落城せしめた。畿内では尼崎、高槻、丹波亀山が西軍の包囲攻撃に耐えかねていずれも開城している。。二条、伊賀上野、膳所、郡山では包囲状態が続いている。
その頃、江戸を進発した徳川家康本隊約8万が、関ヶ原に姿を現した。
5Turn(10/19)
伊賀上野と郡山が包囲攻撃の末落城した。伊賀上野は伊賀方面随一の巨城であり、その落城は同方面における西軍側の行動に大幅な自由度を与えた。また郡山では奮戦を続けていた桑山一直が壮烈な討死を遂げている。その頃、徳川家康率いる東軍主力が南近江の愛知川西岸に到達。そこに柵を築いて膳所を囲む西軍主力約5万と対峙する。兵力では西軍を圧する東軍であったが、指揮能力や戦意では西軍が遥かに勝っている。そのために徳川本隊は自重し、西軍への攻撃を仕掛けようとはしていない。
7Turn(10/25)
大坂城からは浪人衆以外に七手組と呼ばれる豊臣家固有の親衛隊が続々と出撃し、近江の戦線に到達しつつあった。膳所を囲む西軍の兵力が約7万まで強化された。この大兵力を以て西軍は膳所を強襲する。膳所を守る板倉勝重(1-0)の奮戦で西軍は8戦力を失ったが、膳所は落城。板倉勝重も壮烈な討死を遂げる。膳所の陥落を見た家康本隊8万は、西軍の勢いに恐れをなして関ヶ原付近まで後退していった。
8Turn(10/28)
膳所を落した西軍諸隊のうち、機動力を有する真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永らが計4万の兵を率いて琵琶湖西岸を北上する。琵琶湖中部西岸に位置する大溝城(2-2)、さらにその奥にある朽木城(2-1)を相次いで落城させていた。こうして琵琶湖西岸に拠点を得た西軍は、次期作戦に備える。9Turn(11/1)
膳所の陥落、琵琶湖西岸の制圧と勢いに乗る西軍。この勢いを見た淀君が遂に秀頼公の出撃を認めた。大坂城に翻る千成瓢箪。秀頼公は淀川北上。そのまま二条城に入り、関白就任を宣言する。狂喜する淀君。10Turn(11/4)
江戸を発した徳川秀忠率いる約7万の大軍が関ヶ原に到着した。これに家康直率の約8万とその他の兵力を合すれば、畿内に展開する東軍兵力は約20万に達した。対する西軍は約10万。兵力比は2:1となったのである。援軍を得た家康公の本隊は、再び南近江に進出。愛知川河岸に陣を敷く。
一方の西軍は琵琶湖攻めに任じていた真田幸村以下約4万が西軍本隊の合流。逢坂山の線で野戦築城を行い東軍の突破に備える。
12Turn(11/10)
膳所に陣を敷いていた西軍が、突如として陣地を放棄した。そして秀頼公を含む西軍本隊約3万ははそのまま大坂城に帰還。真田幸村、後藤又兵衛、明石全登、毛利勝永、長宗我部盛親率いる約5万の別動隊は、琵琶湖西岸を北上し、先程占領した大溝城に布陣する。関東の大軍を背後から襲う構えだ。そして彼らの中でも機動力に富む真田幸村麾下の約1万人は、早くも関ヶ原の線まで進出していた。その進撃途中で長浜付近に上杉家の家老、直江兼継(2-4)麾下の約2千を捕捉、これを殲滅していた。「上杉にこの人あり」と言われた直江兼継のあまりにも惨めな最期であった。主力が去った膳所城には木村重成(3-2)率いる約1万強の七手組が入城する。膳所を狙う東軍に対して少しでも損害を強要する布陣である。しかしその膳所城は東軍主力の猛攻の前にあえなく落城していた。10万以上の大軍に攻めかけられたら、さしもの勇将木村重成でも抗すべくもない。木村重成は、同じく膳所に入城していた大野道犬(1-1)と共にあえない最期を遂げる。
また西から迫る東軍部隊約8万は、福島正守(1-0)らが守る尼崎城を強襲する。これを一撃の元に落城させていた。
また西から迫る東軍部隊約8万は、福島正守(1-0)らが守る尼崎城を強襲する。これを一撃の元に落城させていた。