11月半ばに開催した山科会の記録です。
今回の参加者は3名で、まずは真田軍記(GJ#36)をプレイしました。下名は東軍を担当しました。
以下はその記録です。
今回の参加者は3名で、まずは真田軍記(GJ#36)をプレイしました。下名は東軍を担当しました。
以下はその記録です。

10/7~13
最初の3Turn、家康公が登場するまでは西軍にとっての天下となる。この時期、可能な限り支配地域を拡大しておくことが西軍にとっては必要となってくる。逆に東軍としてはこの時期可能な限り兵力を温存し、続く決戦に備えたい所だ。
この状況を見た幕府の板倉勝重(1-0)は、二条城を捨てて東へ遁走。伊賀上野の上野城(4-8)に立てこもった。

10/16~22

その間にも畿内では西軍がその地歩を拡大していく。攻囲された大和郡山城(3-2)が包囲の末落城。城を守る桑山一直(0-0)は壮烈な自刃を遂げた。そして再び板倉勝重が入った二条城(3-3)を真田幸村(5-6)、後藤又兵衛(4-5)、長曾我部盛親(4-4)、明石全登(4-5)、毛利勝永(3-4)といった西軍主力が計19ユニット(約5万)の大軍で攻める。板倉勝重麾下の約2千の兵は、約10倍の敵に一歩も引かぬ戦いを見せた後、全員が討死して果てた。

10/25~28



10/28~11/1


この情勢に怒った西軍首脳部は、真田、後藤、長曾我部、明石らの主力部隊を直ちに南大和に派遣。僅か2千の渡辺隊を囲んだ。渡辺隊は鎧袖一触の元に壊滅。渡辺官兵衛も壮烈な最期を遂げる。

11/1~11/7

それを見た西軍諸隊は伊賀の名城、伊賀上野城を落城させた後、真田幸村以下の諸将が鈴鹿山脈を越えて伊勢に進出してきた。

11/7~19

二条、伏見、淀、高槻、茨木といった淀川沿いの諸城は次々と陥落。東軍主力は大坂城を指呼の元に捉えた。
一方、遠く伊勢に進出してきた西軍真田幸村らの機動部隊は、伊勢から急遽転進して近江の南、膳所城を眼下に見る高台まで進出してきた。しかしそれを見た東軍主力は家康、秀忠以下の主力部隊を京の二条城に集結させて西軍主力を牽制する一方、別動隊の片倉小十郎(3-3)が西軍の後方ラインを襲撃し、その補給線を遮断した。それにより大きな消耗を強いられた西軍諸隊は膳所の陣を捨てて彦根まで後退を余儀なくされる。

11/15~28



西軍は最後の逆襲を決意。関ヶ原付近に集結していた約20ユニット、5万人の兵力で大坂へ向けた反転襲撃を試みる。彦根に集結している東軍主力に対しては犠牲部隊を突入させて敵の足を止める。その隙を突いて西軍部隊は彦根南部を迂回、東軍主力の鼻先をかすめて大坂を目指す。対する東軍主力は慌てて彦根の陣を引き払って西軍主力を追う。西軍主力の大阪到着が早いか、それともその後尾を東軍主力が捕捉撃破できるか・・・。


大坂城落城。
東軍の勝利。
感想

まず中盤の西国武将。調子に乗って三田を攻めたが、案の定真田幸村の反撃で大損害を被ってしまった。この時は大損害を出しながらもなんとか損失ユニットは出さずに済んだが、これは一重に運が良かっただけ。下手をすればこちらに除去ユニットが出てもおかしくない場面であった。やはり西軍主力が健在な間は、西国武将は積極的な攻撃には出ず、後方に下がって西軍を引き付けつつ、家康、秀忠率いる主力軍が来てから歩調を合わせて前進するのが良いと思われる。

最後の西軍主力による関ヶ原からの「大返し」も反省点が多い。東軍の全軍が彦根に集結したから今回のような芸当ができたのだが、東軍の全軍を集める必要はなかっただろう。主力は彦根に集めるとしても、前衛や側面援護の部隊を展開させれば、足止め部隊の突撃で全軍の足が止められることはなかっただろう。
いずれにしても「真田軍記」は面白い。機会を見つけて再戦したいものだと思う。