
八甲田山登山の翌日、北東北のローカル私鉄に乗ってきました。
弘南鉄道弘南線
JR弘前駅と黒石駅を結ぶ全長約17kmのローカル線です。使っている車両はかつて東急線で使用していたステンレス車。この種の旧式私鉄車両は、弘南鉄道以外で上田電鉄でも使われています。片道約30分のローカル線の旅。車窓は市街地、田圃、そして遠景には岩木山。平凡ながらも津軽っぽい風景が広がっています。途中「田んぼアート」という駅があり、途中下車したい衝動に駆られました。

弘南鉄道大鰐線
中央弘前-大鰐間の約14kmを約30分で結ぶローカル私鉄。上の弘南線に比べると列車本数が半減(1時間に1本、弘南線は30分に1本)し、輸送需要の少なさが伺えます。そりゃまあJRで10分強で走り切る距離を倍以上の時間をかけて走るのだから、さもありなん。弘前側の始発駅中央弘前が、JR弘前に比べるとやや市街地中央に近い場所にある点がメリットと言えばメリットかな。昼前になると地元の中高生が数多く乗ってきたので、中高生の通学路線としては今でも機能しているようです。

写真の「平賀ひろこ」さんという女性職員の方に是非お会いしたかったのですが、残念ながらお会いできませんでした。本当に残念です。
何故か吊革に「東急食堂」なる文字が・・・。弘前で東急本店8階の東急食堂を紹介されてもねぇ・・・。(第一今でも「東急食堂」なんて残っているのだろうか・・・
秋田内陸縦貫鉄道
冬の雪景色が圧巻なローカル私鉄です。(冬のレポートは-->[@@ こちら])今回は10月初旬。紅葉にはややまだ早い。沿線風景はそれなりに風情がありますが、紅葉もまだちょっという感じでした。
角館に到着する直前、列車から見えるところに「田んぼアート」があり、少し楽しめました。
ちなみにこの列車は車販嬢が乗務しており、それが秋田娘的なスタイルです。最近はローカル私鉄にも車販嬢やアテンドさんが乗務している例が多いので、旅先の楽しみが少し増えました。

















序盤の展開は前回とほぼ同様だった。東軍が岐阜城を陥落させてポイントを獲得すると、西軍も宇喜多秀家が伊勢の安濃津城と松阪城を陥落せしめてすかさず同点。毛利元康隊が大津城を落城させるに及んでポイントで西軍が有利にたった。この状況を見た淀君は秀頼の出陣を許可。秀頼公が早くも大坂城の外に出た。
その頃主戦場である関ヶ原方面では、北陸道から大谷吉継隊が到着し、要域赤坂に陣取る。しかし東軍も岐阜城を陥して勢いに乗る福島、黒田の両隊が赤坂に陣取る大谷隊に殺到した。地形的には有利な場所に陣取っていた大谷隊であるが、この時の東軍は強かった。西軍脇坂安治、朽木元綱が次々と討死。大谷吉継にも危機が迫る。大垣城を急遽出撃してきた石田三成が大谷と合流。大谷吉継は辛くも窮地を脱した。
東軍は引続いて大垣城攻略に着手する。福島、細川、池田等の他に、戦場に到着した徳川家康隊が加わり、大垣に猛攻を加える。大垣城は守備隊2隊で守られており(他の城はいずれも0~1隊)、それなりの抵抗力が期待できた。東軍の猛攻で大垣守備隊はかなりヤバイ状態になったが、大津方面から転進してきた毛利元康隊が大垣城に到着。大垣城の危機は一応回避された。
期待の福島正則がまさかの裏切りによって東軍の作戦は、大幅な変更を強いられることになった。家康本隊が僅か3ユニットにまで削られながらも関ヶ原盆地を突破。琵琶湖畔に進入した。琵琶湖東岸を南下した家康隊は西軍の反撃を回避しつつ水口城を占領した。それを西軍宇喜多秀家隊が追う。伊賀上野から大阪を目指す家康本隊。それを追う宇喜多隊。家康本隊が大坂城に達した時、その後方から宇喜多隊がすぐそこまで来ていた。家康本隊にまたもや壊滅の危機が迫る。






序盤は静かな立ち上がり。東軍諸将が織田秀信守る岐阜城を陥落させると、西軍も宇喜多秀家が安濃津城を落とし、毛利元康が大津城を落城させていた。この時点で西軍が一歩有利にたち、秀頼公も大坂城を出陣。毛利輝元麾下の軍勢として東に向かう。
関ヶ原正面では東軍黒田長政麾下の先鋒隊が関ヶ原を抜けて北近江に進出。佐和山城を急襲。これを奪取していた。西軍陣営に動揺が走る。その動揺が遠く丹後田辺城へ向かっていた小野木公郷の軍勢をも揺さぶった。西軍の動揺を見越した家康陣営はすかさず小野木勢に調略を実施。成功率1/6に過ぎなかったが小野木勢は見事に東軍に寝返った。田辺城に向かっていた小野木勢は突如反転。
さて、大坂城占領によってさらに戦局を有利に進めた東軍は、一気に雌雄を決すべく大垣城に強襲攻撃を仕掛ける。一方の西軍も宇喜多、大谷らが漸く関ヶ原の主戦場に到達。家康本隊も最前線に展開してきた。関ヶ原盆地に布陣した家康本隊に対し、高地を占めた宇喜多秀家隊が猛攻を仕掛けた。高度の優位を得た場合、自らの攻撃で攻撃力+1、相手の攻撃で攻撃力-1が適用される。従って高地から低地を攻撃すると、せの威力は凄まじい。高地を生かした宇喜多隊の攻撃は凄まじく、家康隊は大打撃を受けた。家康本隊を構成する6ユニットのうち、家康本人を除く5ユニットが壊滅。松平忠吉も戦死する。あと一撃、あと一撃で家康本人を討ち取り、西軍は奇跡の逆転勝利まであと一歩の所までキター。
この危機を救ったのが福島正則である。際どいタイミングで行動カードを引いた福島隊は家康本隊を収容。家康は正に九死に一生を得て戦線後方に下がっていた。一方前線に出た福島隊は南宮山と松尾山の間の低地に陣取っていた石田三成隊に目をつけた。「三成憎し」の一念に燃える福島正則は、石田隊に猛攻を加えた。石田隊に所属する島津、小西、島左近らは決して弱兵ではない。むしろ屈指の強兵ともいえた。しかしこの時は福島の攻撃が早すぎた。次々と繰り出されてくる攻撃に対し、石田隊は防戦一方で反撃の機会を掴めない。とうとう石田隊の周りには三成本隊のみになってしまった。