
「戦略級関ヶ原」は2003年に新生Game Journal誌第2号の付録ゲームとして出版されたシミュレーションゲームである。テーマはタイトル通り関ヶ原の合戦で、北は山形から西は大坂城までの日本の中心部をマップに収めている。
基本システムは、名作「信長最大の危機」を踏襲しており、チットにより行軍する陣営を決め、ダイス目の数だけ行軍できるというシステムである。また戦意の低い部隊は、一定の行軍ダイス目以上を出さないと行軍できない。総じて西軍は戦意が低く、東軍は野戦修正が低い。従って力攻めの西軍と運動戦の東軍という展開になるだろう。
基本システムは、名作「信長最大の危機」を踏襲しており、チットにより行軍する陣営を決め、ダイス目の数だけ行軍できるというシステムである。また戦意の低い部隊は、一定の行軍ダイス目以上を出さないと行軍できない。総じて西軍は戦意が低く、東軍は野戦修正が低い。従って力攻めの西軍と運動戦の東軍という展開になるだろう。
今回は西軍を担当した。
0Turn
ゲーム開始前に東軍は特別移動を1回行える。東軍は池田輝政(1-2)(野戦修正-戦意、以下同じ)率いる1個軍団(8戦力)が上杉攻めを強行する。宇都宮から北上して白川城で上杉軍の分遣隊1戦力を包囲する。
1Turn
西軍が2回連続でチットを引いた。行軍ダイスも2回連続で6が出て絶好調。小早川秀秋(1-1)率いる1個軍団と鍋島隊(1-1)率いる1個軍団の計14戦力が伏見城を強襲。これを落城せしめた。
石田三成(1-2)率いる1個軍団と吉川広家(1-1)率いる1個軍団の計16戦力は伊賀上野の安濃津の城を落城せしめる。
小野木重勝(1-1)率いる半個軍団(4戦力)は丹後田辺城を強襲。攻撃力に不安があったが、出目に恵まれてて落城。細川幽斎(1-*)に切腹を強いていた。



4Turn
北陸路で東軍前田利長(1-1)が動いた。1個軍団(8戦力)の兵力を率いて金沢を出陣。小松城に篭る西軍丹波長重(1-1)麾下2戦力を小松城に囲む。と、そこで西軍はイベントカード「空弁当」を使用。いきなり中立化された前田隊は、近くの山に登っていった。
5~7Turn
宇喜多秀家(2-2)率いる1個軍団(8戦力)と立花宗茂(3-3)率いる半個軍団(4戦力)が大坂城を出撃する。宇喜多隊は西軍野戦部隊の中核となる部隊だ。彼らは大津まで進出し、東軍の出方を伺う。立花隊は野戦修正、戦意共最高値なので、小兵力ながら貴重な機動兵力となる。彼らは敦賀まで進出して北陸路を伺う。立花隊は敦賀よりさらに北陸路を奥に進み、中立化した前田利長隊を尻目に金沢、富山を次々と無血占領する。その間畿内では、石田三成隊と吉川広家隊の2個軍団計16戦力が松阪城を強襲占領していた。これで畿内の城はすべて西軍の支配する所となった。


9Turn
会津で上杉が動いた。会津若松を出撃した上杉景勝(3-2)、直江兼続(3-2)率いる計10戦力の上杉軍が白川に出陣。東軍池田輝政(1-3)率いる10戦力と交戦する。戦力は互角だったが、野戦修正で上杉軍が圧倒的だった。池田隊は撃破され退却。東軍井伊直政(2-2)率いる2戦力が篭る白川城を上杉軍が包囲した。
10~14Turn
結局白河城は落城。井伊直政は切腹して果てた。白川を落とした上杉軍は少数の守備隊を残し、会津に引き上げていった。そして上杉軍は北へ向かい、越後を攻める。堀秀治(1-1)、溝口秀勝(1-1)が守る新発田城。堀秀治は上杉軍と野戦を戦うが、敵うはずもなく蔵王(現在の新潟市)に後退。新発田城を囲んだ上杉軍は溝口秀勝に降伏を勧告。調略の効果もあり、溝口は降伏し西軍側についた。それに続いて隣接する本庄城を守る村上義明(1-1)も東軍を裏切って西軍についた。上杉軍不在を見た宇都宮方面の東軍池田輝政隊は再び白川城を攻めた。上杉軍の別働隊1戦力が城内に包囲される。しかしそこへ直江兼続率いる1個軍団が会津から出撃してきた。池田隊は包囲を解き宇都宮に退却しようとする。しかしその時池田隊の一角が崩れた。京極高知隊が西軍へ寝返る。中村一氏隊2戦力も不穏な動きを見せるが、東軍が人質カードでなんとか寝返りを押しとどめて中立化に留まった。いずれにしても池田輝政率いる軍団は、その戦力を半数を調略によって失った。
そして畿内情勢の変化が止めとなった。秀頼が出陣したのである。濃尾平野に千成瓢箪が打ち立てられる。これを見た福島正則は戦意を失い投降。そのまま西軍側についた。残った東軍も最早秀頼本隊とまともに戦う力はない。ここに徳川家康は交戦継続困難なるを認め、秀頼との和議の道を探ることとなった。

激闘関ヶ原
論争関ヶ原合戦
関ヶ原合戦の真実
関ヶ原-司馬遼太郎(上中下)
群雲、関ヶ原へ(上)
群雲、関ヶ原へ(下)







序盤の攻勢の主役は、北方のヴォロネシ方面軍である。第5親衛戦車軍等、戦車軍2個を含むヴォロネシ方面軍は、北から南下し、ベルゴルド(Belgorod 4409)とハリコフ(Kharkov 4213)を目指す。肝心な所で"1"の目が出たりして、突破は必ずしも成功とは言い難いが、それでもベルゴルド西方から突破を図るソ連軍は、ドイツ軍の陣地帯に対して最小限の突破口を啓開した。
その南、イジューム(Izium 4619)付近ではドイツ軍第15歩兵師団(3-7-4)を撃破することに成功。対岸に向けて突破口を啓開した。
ドイツ軍の精鋭である第48装甲軍団がハリコフ北部に姿を現した。ヴォロネシ方面軍は第48装甲軍団との対決を避けるため、ハリコフへは真っ直ぐ南下せず、やや西に進撃路を向けて、ハリコフ、スミィ(Sumi 3408)間の鉄道線に向けて進撃した。対するドイツ軍はハリコフ北西部に進出していたソ連軍部隊をほぼ駆逐し、ハリコフ~ベルゴルド一帯を制圧した。



ドイツ軍はスミィ方面に主力を投入してきた。攻撃の先鋒となる第506重戦車大隊(S-2-5)やこのTurn増援で現れたグロスドイッチュランド装甲擲弾兵師団(12-9-6)を先頭に、第48装甲軍団、第2SS装甲軍団等、装甲師団4個、装甲擲弾兵師団3個が反撃を仕掛けてきた。さすがに集中投入されたドイツ軍装甲部隊の威力は凄まじく、ソ連軍機械化軍団1個が敵重囲下に取り残されてしまう。
先にドイツ軍の反撃を受けたスミィ地区では、ソ連軍戦車軍団が敵中に孤立した友軍機械化軍団を救出すべく必死の反撃を試みる。しかし出目に恵まれず("1"の目を出してしまった)反撃は失敗。敵中に孤立した機械化軍団は、このTurnの損耗チェックで兵力の半数を失ってしまう。
スミィ方面が固いと見たソ連軍は、攻撃の矛先を再びハリコフ方面に向けた。スミィ方面に機械化兵力の約1/3を残し、第5親衛戦車軍、第1戦車軍を主力とする残り2/3はハリコフ正面に向けられた。ジューコフ将軍もハリコフ正面へ移動し、次Turnからの督戦に備える。その甲斐もあってかソ連軍はハリコフまであと2Hexまで迫った。

ハリコフ正面では2個戦車軍を投入したソ連軍がジューコフ将軍の督戦もあってドイツ軍防衛線を切り崩し、ハリコフに対して2箇所から接敵した。それに対してドイツ軍は第48装甲軍団を主力とする反撃部隊をハリコフ正面に投入してきた。血で血を洗う激戦の末、ハリコフに接するソ連軍橋頭保は1つが失われ残りは1つとなった。
ドンバス方面ではドネツ工業地帯へ突進を図るソ連軍に対し、ドイツ軍は綱渡りのような防衛線を構築する。崩壊寸前のドイツ軍防衛線。ソ連軍としても出目如何でゴルロフカ、コンスタンチノフカ(Konstantinovka 5123)の2都市を奪取できる可能性が十分にあった。しかしそれを阻んだのはステップロスした僅か1個のドイツ軍歩兵師団。彼らが成し遂げた小さな偉業を讃えるために、ここにその名を記しておこう。ドイツ国防軍第387歩兵師団。
出目が悪かったのも確かであるが、今一つ押しが足らなかった。








まず先に「手弁当」事件を起こした毛利隊だが、毛利秀元の指揮の元、素早く兵力の立て直しを行った。毛利隊を戦力化するためには、行動セグメント毎に戦意チットを引き、"1"のチットを引く必要があったが(確率1/6)、最初のチット引き"1"を引いたので毛利秀元はすぐに行動可能となった。元々戦意の高い毛利秀元が自由に行動できるようになったため、吉川の寝返りは西軍にとって益した部分もあった。
その頃、岐阜城のはるか東から東軍主力部隊が続々と登場してきた。徳川秀忠率いる約15000名の東軍部隊である。さらに清州には徳川家康本隊約2万も登場。戦力を整いつつある東軍なのであった。
長良川を挟んで対峙する東西両軍。西軍最右翼を守るのは石田三成、小西行長ら約15000名で、竹ノ鼻対岸に布陣している。その左、墨俣付近に宇喜多秀家隊、さらに毛利秀元隊、鍋島勝茂隊と並び、最左翼が岐阜城で、そこには島津隊、立花隊、長宗我部隊が布陣している。薄く伸びきった西軍戦線に対し、東軍はさらにその南、堀津付近で長良川を強引に渡河してきた。細川忠興率いる1万余である。湿地を進む細川隊の姿を石田隊の物見が捉えた。
石田隊の苦戦を見た宇喜多隊が東軍右翼を突き、黒田長政隊を逆包囲して痛打を浴びせる。宇喜多隊の猛攻を受けて忽ち崩されていく黒田隊。
その後の展開は簡単に触れておこう。先のTurnに大活躍した宇喜多隊が今度は東軍に包囲されてしまう。援護すべき他の部隊は別の東軍部隊によって足止めさせてしまい、宇喜多隊の撤退を助ける術はなかった。宇喜多隊は壊滅。宇喜多秀家も戦死してしまう。
