もりつちの徒然なるままに

ウォーゲームの話や旅の話、山登り、B級グルメなどの記事を書いていきます。 自作のウォーゲームも取り扱っています。

2014年10月

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10月の3連休を利用して有岡会に参加しました。
以下はそのレポートです。

信長最大の危機

言わずと知れたGame Journalの傑作ゲーム「信長、最大の危機」。今回は信長側でプレイしました。「嫌がらせ戦法」を得意技とする対戦相手のネチネチ攻めてくる戦法にイライラ感を募らせながらのプレイでしたが、中盤以降相手プレイヤーがモラルダウンを起こしたため、勝たせてもらいました。詳しくは後日報告します。

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激突、南太平洋

1980年代にエポック社から発売され、2014年に国際通信社CTSシリーズの1作として発売された作品です。1ユニットが1隻(空母、戦艦、巡洋艦)又は2隻(駆逐艦、輸送船等)を表し、航空機は1ユニット9機を表します。

まずは基本シナリオである南太平洋シナリオをプレイ。最初のプレイでは空母「翔鶴」を撃沈した後、日本軍の航空反撃で「エンタープライズ」が中破。その後米軍の攻撃で「隼鷹」「瑞鶴」を次々に撃沈して米軍の勝利。米軍の損害は「エンタープライズ」が波状攻撃で撃沈されたのみです。
第2回目のプレイでは再び米軍を担当。今回は索敵の優位から日本機動部隊を一方的に発見し波状攻撃を実施。分散配備された日本軍の空母を確保撃破し、「翔鶴」と「隼鷹」を撃沈。米軍の損害は艦載機のみという状況でした。
これまでの対戦はいずれも1時間以内に決着がついています。

ここで終わる予定でしたが、折角なのでもう1回プレイしてみようということになりました。同じシナリオをプレイするのも何なので上級ゲームシナリオである「珊瑚海海戦」を試してみることにしました。このシナリオでは今まで導入されていなかった水上部隊や水上戦闘に関するルールが導入され、索敵に関するルールも一新されています。基本的なスタイルは同じ国際通信社の「日本機動部隊」に近いルールとなり、殆ど同じ作品といって良い程変更になりました。今回も米軍を担当。この詳細は別途報告します。

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激闘、グデーリアン装甲軍

所謂「激グデ」。1941年のスモレンスク戦をテーマとし、傑作「激闘、マンシュタイン装甲軍団」のシステムをベースとしたゲームです。お互い初プレイ状態だったので、手探り状態でのプレイとなりました。下名はドイツ軍を担当。
序盤は補給も潤沢で機動力もあるので敵中深く突っ込みましたが、どうも包囲のキレが悪く力押しの感。
第2Turn以降は独軍の補給状態が悪化して一気に苦しい展開に。ティモシェンコの反撃等に対し、グデーリアンチットを割り込ませてなんとか凌いでいる。ここでも「嫌がらせプレイ」を身上とする対戦相手のねちっこいプレイにイライラを募らせている下名。おのれ・・・。
第3Turnに戦線後方から歩兵を含む大部隊が追随してきて漸く戦線側面が安定。側面をソ連軍に脅かされる危険はかなり減少。
第4Turnに調子に乗ってスモレンスクを南北から包囲にかかるが、逆にソ連軍の反撃うけてドイツ機械化2個師団が退路を断たれて壊滅。

とまあこんな感じでプレイした所でお開きとしました。最後の機械化2個師団壊滅というのは、ルール9.5.3(2)項「味方ユニット上を後退する機械化部隊はZOC内後退であってもステップロス不要」というルールをすっかり忘れていました。従って機械化師団の損害は1~2個程度減少していたはずです。

にしても初プレイということは差し置いてもかなりヘボなプレイでした。しかしゲーム自体は面白そうで、かつ研究のし甲斐もありそうなので、Game Journal誌の記事等を参考にしながら、再トライしてみたい作品です。

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関ヶ原大作戦(GJ#32)

対戦相手が初プレイなので、まずは簡単そうな西軍側を担当してもらい、下名は東軍を担当。
このプレイでは東軍が調略戦を利用して西軍陣営の各個撃破を図り、成功。東軍が順当に勝利しました。
対戦相手が「どーやったら西軍で勝てんねん」という感じで怪訝な表情を浮かべているので、それなら西軍の戦いを見せてあげましょう、ということで下名が西軍を担当したものの、今度は電撃的な東軍の侵攻と小野木公郷への恫喝の成功によって戦局の逆転を許して西軍の大敗。秀頼公を出陣させることすらできなかった。
これでは終われないとばかり、嫌がる相手プレイヤーを無理やり説得。再び西軍を率いて関ヶ原の戦いに挑んでみましたが・・・。
今度は城塞の陥落が順当に進み、秀頼公の出陣も上手くいった。調略マーカーの位置も西軍有利なポジションだったので「今度こそは勝った」と思ったのですが。
家康公は赤坂の陣を抜けって一気に松尾山の麓へ陣取り、すかさず「金吾の陣へ鉄砲を撃ちかけぇ・・・」と恫喝を命じる有様。確率1/3で失敗して酷い事になる筈なのに、何故かその1/3が出ない。そんなこんなで情勢が再び東軍有利になった所で、西軍としては逆に恫喝戦で逆転を期待した所ですが、西軍が恫喝ダイスを振ると、恫喝成功率1/2にも関わらず何故か上手くいかない。結局西軍は自ら降った恫喝ダイスの失敗によってゲームそのものを失うという惨めな結果に終わってしまいました。

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激闘関ヶ原 論争関ヶ原合戦 関ヶ原合戦の真実 関ヶ原-司馬遼太郎(上中下) 群雲、関ヶ原へ(上) 群雲、関ヶ原へ(下)

激闘関ヶ原
論争関ヶ原合戦
関ヶ原合戦の真実
関ヶ原-司馬遼太郎(上中下)
群雲、関ヶ原へ(上)
群雲、関ヶ原へ(下)

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東洋のマチュピチュと言われている竹田城は、兵庫県朝来市の南部、竹田にある城跡です。この辺り標高500m以下の小さな山が沢山あるのですが、竹田城もそんな山の一つ。山の山頂部に石垣を残した城跡があり、遠方から見るとまさに「天空の城」という感じです。

私が行ったのは氷ノ山に登った日の夕方で、天空の郷と呼ばれる駐車場まで車で上がることができました。天空の郷に車を停めて、1545発のバスに乗って城のすぐ下まで上がります。そこから歩いて15分ほどで天空の城に到着。下から見れば神秘的に見える竹田城ですが、登ってみると「まあこんなもんかな」という感想が出てきます。

帰りはバスを使わずに歩いて天空の郷まで降りて行きました。復路の所要時間は約30分。山登りの「おまけ」としてはちょっときつかったですが、まあ良い散歩になりました。

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氷ノ山登山の後、遅めの昼飯は但馬牛を食べることにしました。
朝来市街から国道xx号を南下。「天空の城」で有名な竹田城の麓にある但馬牛の店が「竹田屋」です。
\1620の焼肉定食を注文。柔らかくておいしい肉でした。
量的には「もう少しあっても良かったかな」と思える量でしたが、味の方は文句なしです。

竹田で食べる但馬牛の店「竹田屋」。お奨めです。

お奨め度★★★★

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氷ノ山は兵庫・鳥取県境にある標高1510mの山です。兵庫県では最高峰で麓にはいくつかのスキー場があります。以前からこの氷ノ山には登りたいと思っていたのですが、この度機会が得られたので登ってみました。

麓の道の駅で夜明かしをし、車を飛ばして福定親水公園に着いたのは0710頃。準備に手間取り、歩き始めたのは0750頃だった。

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久しぶりの登山なので体が慣れていない。しかもいきなり急登なので結構キツイ。ゼイゼイ言いながら登っていく。それでも30分ほど登ると体調がやや戻ってきた。中腹まで達すると紅葉が綺麗なので写真を撮りながら歩いていく。辛い山歩きでも景色が良いと楽しくなる。

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氷ノ山越には0940頃に到着。ここで鳥取方面からの登山道と合流する。ここからは稜線を歩いて1時間ほどで氷ノ山山頂だ。稜線の向こうに氷ノ山の山頂が見える。

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氷ノ山山頂に着いたのは1045頃だった。登山口からの所要時間は丁度3時間ほどだった。コースタイムとほぼ同じ。うーん。もう少しハイペースで登りたかったが・・・。山頂からは360度の視界が開けて絶景かな。

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1100頃下山開始。帰りは往路とは違うコースで降りることにした。神大ヒュッテから東尾根方面に下りていく。東尾根の紅葉も綺麗だ。写真を撮りながらの下山であったが、途中で雲が出てきたので写真が完全には綺麗には撮れなかった。

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1230頃東尾根避難小屋に着いた。そこから急な斜面を下りていく。奈良尾のキャンプ場に下りてきたのは1300頃。さらにそこから車道を降りて行き福定親水公園に着いたのは1330頃だった。

所要時間は往復で6時間弱。コースタイムに比べるとそれほど悪くはないが、それでもコースタイムギリギリというのは情けない。もっと体を鍛えないと・・・。紅葉は綺麗だった。丁度良い時期だったと思う。標高で言えば1000~1200m付近が一番良かったと思う。

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前回、山科会で大敗を喫して以来の対戦となる「フリードリヒ最大の危機」。今回も前回同様反フリードリヒ側を指揮することになった。
順当に戦えば有利と言われている反フリードリヒ側だが、果たして順当に行くだろうか・・・?

1756年

8月

イメージ 12プロイセン軍は定石通りザクセンを攻める。まずライプチヒが陥落。その後トルガウ、ドレスデンが陥落する。東プロイセンではレーワルト将軍(★1)率いる6戦力がダンツィヒを陥落させていた。

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1757年

2月

年が明けて1757年。オーストリア軍は主力をモラビアのオリュミッツに集結させる。

4月

フランス軍が動いた。ライン河畔から北上、ウェーゼル河畔の要域ミンデン要塞を無血占領する。

6月

イメージ 13ロシア軍が動いた。アプラクシン将軍(★★1)率いる24戦力が東プロイセンに侵攻。ケーニクスブルクを占領する。
フランス軍はウェストファリア一帯に版図を広げていく。
プロイセン軍はボヘミア侵攻開始。フリードリヒ(★★3)率いる16戦力がプラハの城塞を囲む。

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8月

イメージ 14イメージ 15スウェーデン軍のハミルトン将軍(★1)率いる5戦力がバルト海に面した港湾都市ステッテンを囲んだ。大要塞に対して如何にも攻撃兵力の少なさが気になるが、それでもスウェーデン軍はステッテン守備隊に対して2Hitを与えていた。
それに対してプロイセン軍はハインリヒ親王(★2)率いる7戦力をベルリンから出撃させてステッテンに向かわせた。スウェーデン軍5戦力とプロイセン軍7戦力の戦い。兵力と指揮能力で勝るプロイセン軍であったが、スウェーデン軍は地形を巧みに利用(森林カードを使用)した。ダイス目の手伝ってスウェーデン軍の圧勝。ハインリヒ親王はほうほうの体で撤退していく。

フランス軍はクレモント(Clermont)将軍(★★1)率いる8戦力がカッセルから東に向かい、プロイセンとの国境付近ロスバッハにまで進撃してきている。

オーストリア軍がモラビアからシレジアに侵攻。オーデル川沿い(要するに右側ルート)に北上し、ナイセ要塞を占領した。プロイセン軍はプラハを攻めるも、プラハはまだ落ちない。冬が近い。

10月

冬を目前前にしてプラハが陥落した。これでプロイセン軍は一息ついた。
ロシア軍はダンツィヒからヴィスラ川沿いに南下し、トルン要塞を陥落させていた。
オーストリア軍がロシア軍に呼応してシレジアを制圧したい所だが、ここでチットを引かずにTurn End。ここでTurn Endはちと痛い。

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1758年

2月

英ハノーファ軍がウェストファリアで反撃に転じた。ブラウンシュバイク公(★★2)率いる8戦力がエムデンからリンゲンに南下してくる。

4月

スウェーデン軍が遂にステッテンを陥落させた。これでプロイセン北東部に拠点を得た反プロイセン軍。これに対してプロイセン軍はさらなる苦境に陥る。

イメージ 16プロイセン西部国境ではロスバッハに前進してきた仏軍クレルモン将軍率いる8戦力に対し、フリードリヒ率いる11戦力が反撃のために出撃してきた。兵力と指揮能力に勝るフリードリヒ軍であったが、湿地に阻まれて大苦戦。まさかの敗北を喫したフリードリヒは、ライプチヒに向けて後退するしかなかった。

カンバーランド公(★★0)率いる英ハノーファ軍はミンデン要塞を囲む。

8月

イメージ 17フリードリヒを破って意気上がる(調子ぶっこいている)クレルモン将軍は、プロイセン本国に侵攻。ライプチヒ要塞を囲む。しかしこれはさすがに調子に乗り過ぎであった。兵力を立て直したフリードリヒがライプチヒで反撃。得意の斜行戦術が炸裂しフランス軍は大敗。国境外に撃退されていった。

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シレジアではオーストリア軍がブリング要塞を陥落させ、要域ブレスラウを指呼の元に捉えた。
ロシア軍はバルト海沿岸部を西進し、コルベルグ要塞を占領する。

10月

イメージ 18英ハノーファ軍がミンデン要塞を奪回した。さらに南下した英ハノーファ軍がカッセルを占領。エアフルトに陣取るフランス軍14戦力(大半が消耗)は後方を断たれてしまう。

ロシア軍はバルト海沿岸を進んでステッテンに到着。スウェーデン軍と合流しステッテンの包囲を解囲する。別動隊がポーランド内陸部からオーデル川沿いのキュストリンに進出。同地を無血占領している。

1759年

2月

イメージ 19アプラクシン将軍(★★1)率いるロシア軍24戦力がベルリンに侵攻。ハインリヒ親王率いる6戦力を撃破してベルリンを支配する。それに対してフリードリッヒ率いる2個軍団16戦力がベルリンに向かう。両軍16戦力同士の激突。しかしここではフリードリヒの指揮が冴えわたる。得意の斜行戦術が炸裂。大損害を被ったロシア軍は退却を余儀なくされてしまう。一方勝利したプロイセン軍も兵力の半数がステップロスしてしまい、必ずしも楽な勝利ではなかった。

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エアフルトで包囲されたフランス軍は、ブラウンシュバイク公率いる英ハノーファ軍の攻撃を受けて壊滅。フランス軍は一気に12戦力を失う大損害を被る。クレルモン将軍は脱出カードで辛くも戦死を免れる。

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イメージ 20一方シレジアでは、オーストリア軍がその支配を完了しつつあった。ケーニヒグレーツ要塞を囲むベーヘン将軍(★1)率いるプロイセン軍6戦力に対してダウン伯(★★2)率いる16戦力が襲いかかった。ベーフェルン将軍の兵力は先の冬に冬季損耗で兵力の過半が損耗しており、新鋭のオーストリア軍に対抗する術はなかった。直ちに撤退するプロイセン軍に対し、オーストリアの騎兵が背後に回り込む。包囲されたプロイセン軍は壊滅的な打撃を被り、ベーフェルン将軍は戦死してしまう。

4月

バルト海沿岸では、フリードリヒが先に大損害を受けたロシア軍を追う。ステッテンで両者は激突。兵力の過半を失っているロシア軍に勝機はなく、ロシア軍は再び大損害を被り、コルベルク要塞まで後退していく。フリードリヒはスウェーデン軍が籠るステッテン要塞を攻めるが、ステッテンは落ちない。


8月

オーストリア軍がシレジア一帯を制圧していく。最後の仕上げにダウン伯率いる16戦力がブレスラウに攻め込んだ。プロイセン軍2戦力がブレスラウに籠るが、2ラウンド続いた攻撃によって遂にブレスラウが陥落する。

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10月

イメージ 22ダウン伯及びブラウン将軍(★★2)率いるオーストリア軍16戦力がドレスデンに侵攻した。ドレスデンを守るプロイセン軍はわずかに1戦力。それでも猛攻に耐えれば冬季損耗のチャンスもあったのだが、奇跡は起こらずドレスデンは陥落してしまう。

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1760年

2月

イメージ 21[attached(16,right)]]ブラウン将軍率いる8戦力はドレスデンから進発してそのまま西に向かいライプチヒを囲んだ。微弱な守備隊した持たなかったライプチヒは一撃の元に陥落してしまう。
一方ドレスデンから北上したダウン伯率いる8戦力とラウドン(★2)率いる8戦力の計16戦力がベルリンに殺到する。ベルリンを守るレーワルト将軍率いるプロイセン軍はたまらず退却。ダウン伯は騎兵を放って追撃するものの、プロイセン軍も騎兵を使ってこれに対抗し、騎兵の追撃を退けた。

「ベルリン、ライプチヒの陥落」

イメージ 23この報ほどプロイセン軍を震撼させたことはない。このままでは負ける。そういう思いに駆られたプロイセン軍は、兵力を結集してベルリン奪回を目指す。ステッテンを包囲中であったフリードリヒ率いる8戦力が包囲を解いてベルリンに向かい、南からはレーワルト将軍率いる8戦力がベルリンを目指す。

ベルリン攻防戦。

兵力はほぼ互角。ただしフリードリヒは連絡線遮断のため能力半減。さらにオーストリア軍は戦術カード3枚揃い踏みでフリードリヒの指揮能力に対抗する。ダウン伯、ラウドン率いるオーストリア軍は強かった。湿地に足を取られたフリードリヒ軍は思うように動けない。結局プロイセン軍はベルリン攻防戦い敗退して後退。ここにプロイセン軍の敗北が確定した。

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感想

全44Turn中22Turn目に決着がついた。丁度半分である。ここまでの所要時間はセットアップを含めて約3.5時間。最終Turnまでプレイしたとしても7時間ぐらいで終われそうだ。

[前回は同じ反プロイセン軍を率いて歴史的大敗を喫したが、今回は順当に勝てた。ロシア軍が普通に動いてくれて、オーストリア軍もフリードリヒとの直接対決を避けることができた(最終局面以外)ために兵力を大きく損耗することはなかった。フランス軍とロシア軍はオーストリア軍程幸運ではなく、いずれもフリードリヒ軍の猛攻によって大損害を被ったが、結果的にはプロイセン軍の時間と兵力の消費を強いたので、必ずしも一方的な敗北ではないだろう。

ゲーム展開としては順当なものだったと思う。反プロイセン軍は、オーストリア、ロシア、フランスを適宜機動させ、フリードリヒに翻弄を強いた。そして戦闘を実施するときは可能な限り自らを防御側とするように努める(反プロイセン軍の戦闘カードは、殆ど防御側のみ使用可能である)。今回はこれらが比較的上手くいった。
あと今回はスウェーデン軍の活躍が目立った。一例を挙げればハミルトン将軍の5~6戦力がステッテンを占領したことであろう。その影響は計り知れない。

いずれにしても面白いゲームである。まだまだ対戦したいゲームの1つである。


Game Journal 50-フリードリヒ最大の危機 Game Journal 89-フランス革命 戦史 七年戦争 フリードリヒ大王の指揮 フリードリヒ大王

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