2015年04月
「燃えよ姉川の戦い」をプレイする
「燃えよ姉川の戦い」(以下、姉燃え)は、元亀元年(1570年)7月30日に北近江の姉川付近で戦われた合戦を再現するシミュレーションゲームである。ゲームは典型的な合戦級で、1Turnは約30分、1Hexは100m、1ユニットは500人程度の部隊を表す。
システムは主導権を前に出した独特のものになっている。移動、戦闘、回復の順でゲームが進んでいくが、所謂プレイヤーターンの概念はなく、各フェイズを主導権を得た側が常に先に実施することになる。ZOCに入った場合は離脱できないというルールもあるので、非主導権側は接敵されたらそこまで。あとは戦うしかない。
戦闘は攻撃側の一方的な攻撃で、それが外れた場合のみ攻撃された側が反撃できる。また1度攻撃を受けたら攻撃権も失うので、大抵は主導権側の一方的な攻撃に終始する。そして主導権は、予想通り序盤は浅井・朝倉の独壇場だ。浅井・朝倉が主導権を失うまで、織田・徳川連合が耐えられるかが勝敗に分かれ目になるだろう。
システムは主導権を前に出した独特のものになっている。移動、戦闘、回復の順でゲームが進んでいくが、所謂プレイヤーターンの概念はなく、各フェイズを主導権を得た側が常に先に実施することになる。ZOCに入った場合は離脱できないというルールもあるので、非主導権側は接敵されたらそこまで。あとは戦うしかない。
戦闘は攻撃側の一方的な攻撃で、それが外れた場合のみ攻撃された側が反撃できる。また1度攻撃を受けたら攻撃権も失うので、大抵は主導権側の一方的な攻撃に終始する。そして主導権は、予想通り序盤は浅井・朝倉の独壇場だ。浅井・朝倉が主導権を失うまで、織田・徳川連合が耐えられるかが勝敗に分かれ目になるだろう。
今回、下名は織田・徳川連合を担当した。
1Turn


織田方の先鋒は坂井政尚。対する浅井は侍大将磯野員昌麾下の部隊が坂井政尚の右翼を突く。忽ち突き崩されていく坂井勢。なんせ浅井側の攻撃力は6/9(第1攻撃力/第2攻撃力)等と言う状態である(織田側の先鋒は3/8ぐらい。士気チェックに失敗した織田側が次々と混乱していく。
ちなみに攻撃については、2D6で第1攻撃力以下の目を出せば重損害で討ち取りチェック、第2攻撃力以下の目が出たら士気チェックである。つまり6/10ということは2D6で10以下で相手側に士気チェックを強要できるのだ。ちなみに織田側一般兵の士気値は5。さらに「横槍」ルールによって士気値-1になるケースが多い。すなわち織田方は士気チェックで2D6で4~5以下を出さない限り混乱する。織田方が突き崩されていくのは半ばお約束であり。とはいえ、これは酷いなぁ・・・・。

2Turn


3Turn

他にも除去ユニットが3ユニットを数えた織田・徳川勢は、ここで恐怖の「裏崩れ1」チェックを強要されてしまう。混乱状態のユニットが次々と除去されていく。しかしこれはまだ序の口だった。

4Turn

しかしこのTurn、討ち取りチェックで1ユニットが討ち取られてしまい、織田方に再び「裏崩れ1」が適用されてしまう。その時、混乱ユニットが次々と士気チェックに失敗。除去ユニットのVPが10点に達したため、恐怖の「裏崩れ2」が起こってしまった。「裏崩れ1」は混乱状態のユニットに士気チェックを強要されて失敗したら除去となるが、「裏崩れ2」になるとそれに加えて敵に隣接していない健在ユニットも士気チェックを強要される。失敗したら混乱状態だ。これによってモロにダメージを受けたのが、反撃の主力と期待していた森可成隊、丹波長秀隊、そして織田信長本隊が続々と混乱していく。元々士気の高い徳川隊はそれほどでもないが、士気値が極端に低く設定されている織田の諸隊は、一度裏崩れが起こると止めようがない。


5Turn

「参りました」
姉川の合戦は、史実と異なり、浅井・朝倉の圧勝に終わった。

感想


重要なルールについて勘違いがあった。裏崩れを引き起こすトリガーとなる除去ユニットは、戦闘フェイズ又は裏崩れフェイズで除去されたユニットのみ。潰走フェイズや回復フェイズで除去されたユニットはカウントされない、ということだ。つまり混乱状態で敵中に孤立したユニットや敵に捕まりそうなユニットはどんどん潰走させれば良い。仮に士気チェックに失敗して除去されたとしても、裏崩れのトリガーにならない。戦闘フェイズで除去されるよりは遥かにマシである。
本編ではあまり触れなかったが、徳川勢もあまり強くない。朝倉方が数で圧倒しているので、四方から攻撃を受けて「横槍」「横槍」「横槍」となる。GJ本誌で書いてあったが、自主混乱して朝倉との距離を離隔し、浅井の側面を突くのが良いかもしれない。初プレイで「自主混乱」は、勇気がいるので殆どできなかったが・・・。
いずれにしてもまともにプレイしない間に負けてしまったというのが実感。もう1度ぐらい対戦してみたい作品である。








宇都宮駅前「典満餃子」
「真田軍記」(GJ36)をプレイする【2】
GJ#36号「真田軍紀」をプレイした。
このゲームは、1614~15年における大坂の陣をテーマとしたシミュレーションゲームである。
史実の大坂の陣は大阪城周辺の比較的狭い地域での戦いとなったが、本作は西は姫路城から東は尾張東部まで含んでおり、大坂方は史実と異なって畿内一円を舞台とした大規模機動戦闘を実施できる。そのあたり、歴史的ゲームというよりは、半仮想戦に近いゲームかもしれない。
このゲームは、1614~15年における大坂の陣をテーマとしたシミュレーションゲームである。
史実の大坂の陣は大阪城周辺の比較的狭い地域での戦いとなったが、本作は西は姫路城から東は尾張東部まで含んでおり、大坂方は史実と異なって畿内一円を舞台とした大規模機動戦闘を実施できる。そのあたり、歴史的ゲームというよりは、半仮想戦に近いゲームかもしれない。
今回、下名は西軍を担当した。
前回まで --> こちら
13Turn(11/13)

畿内では西国からの東軍約8万が大坂城を囲んでいた。しかし頼みの浪人衆が皆出払っている西軍が、関東方の大軍に対抗できる筈もなかった。あえなく包囲される大坂城。あとは淀君と秀頼公の耐久力がいつまで持つかだが・・・。
その頃、京の二条城では大攻防戦が繰り広げられていた。塙団右衛門(3-2)以下約8千の西軍が、10万を超える東軍相手に大奮戦。徳川家康本隊に計10損害以上を与えた後、自らは一兵も残さずに壊滅した。

14Turn(11/16)
美濃にまで進出していた真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親は、木曽川を越えて尾張に進出。名城
畿内では、大坂を目の前にして徳川親子が茨木城(2-2)を攻撃していた。茨木城には京から撤退中で大坂城の目の前まで来ていた蒲田兼相(2-2)が入城していた。蒲田兼相の奮戦むなしく茨木城は陥落。蒲田宰相は討死してしまう。
堺では、新宮行朝(1-0)が東軍の攻撃を受けて戦死している。
堺では、新宮行朝(1-0)が東軍の攻撃を受けて戦死している。
15Turn(11/19)

浪人衆の策動に手を焼いた徳川軍は、遂に家康本隊及び秀忠隊を以て浪人衆を追った。琵琶湖西岸を北上した家康、秀忠隊が大溝城、朽木城を相次いで奪回していた。


一体どうしたというのだ。
女官たちの部屋に砲弾が落ちてきて、淀君が「和議じゃ、和議じゃ」と叫んでいるとでもいうの・・・。
とにかく1の目を出さないようにするしかないが、ゲームはまだあと13Turnも残っている。
16Turn(11/22)



結局後藤又兵衛隊約1万は、約6~7万の徳川隊による猛攻を受け壊滅。後藤又兵衛自身も壮烈な最期を遂げてしまう。

その間、長宗我部盛親、毛利勝永は伊勢亀山城(3-3)を強襲し、これを落城せしめていた。
17Turn(11/25)
後藤又兵衛を失った浪人衆は、止む無く畿内を撤退。長宗我部、毛利らと合流すべく伊賀路を東へ進む。しかしその後方から東軍が追う。真田幸村、明石全登らは鈴鹿峠に布陣し、東軍の突破に備える。
感想
負けてしまった。いや、負けたのは仕方がない。元々勝ち目のない戦いだったのだから。ただ華々しい合戦での勝利がなかったのが悔しい。同じ負けるにしても、家康公率いる大軍と決戦を繰り広げてから負けたかった。そういった意味では、第11Turnで瀬田の防衛線を放棄したのは失敗だったかもしれない。それよりも負けを覚悟でも奇跡を期待して家康公率いる東軍主力と対決すべきだったか・・・。いずれにしても、今回はあまりに無計画過ぎた。次回はもう少し計画的に行動しないといけないと反省しきりである。
あと1度ぐらい西軍でチャレンジしてみたい作品ではある。









「真田軍記」(GJ36)をプレイする【1】
GJ#36号「真田軍紀」をプレイした。
このゲームは、1614~15年における大坂の陣をテーマとしたシミュレーションゲームである。
史実の大坂の陣は大阪城周辺の比較的狭い地域での戦いとなったが、本作は西は姫路城から東は尾張東部まで含んでおり、大坂方は史実と異なって畿内一円を舞台とした大規模機動戦闘を実施できる。そのあたり、歴史的ゲームというよりは、半仮想戦に近いゲームかもしれない。
このゲームは、1614~15年における大坂の陣をテーマとしたシミュレーションゲームである。
史実の大坂の陣は大阪城周辺の比較的狭い地域での戦いとなったが、本作は西は姫路城から東は尾張東部まで含んでおり、大坂方は史実と異なって畿内一円を舞台とした大規模機動戦闘を実施できる。そのあたり、歴史的ゲームというよりは、半仮想戦に近いゲームかもしれない。
今回、下名は西軍を担当した。
1Turn(10/7)

大和路に進んだ長宗我部隊は大和の国の入り口である龍田城(2-1 城の場合は強度と耐久力、以下同じ)を攻撃。これを占領していた。また淀川沿いを進んだ後藤隊と明石隊計2万弱は、片桐且元(0-0)が籠る茨木城(2-2)を囲む。圧倒的兵力の西軍の前に片桐且元は奮戦するも、最後は討死して果てた。

2Turn(10/10)


3Turn(10/13)

4Turn(10/16)

二条、伊賀上野、膳所、郡山では包囲状態が続いている。
その頃、江戸を進発した徳川家康本隊約8万が、関ヶ原に姿を現した。

5Turn(10/19)

その頃、徳川家康率いる東軍主力が南近江の愛知川西岸に到達。そこに柵を築いて膳所を囲む西軍主力約5万と対峙する。兵力では西軍を圧する東軍であったが、指揮能力や戦意では西軍が遥かに勝っている。そのために徳川本隊は自重し、西軍への攻撃を仕掛けようとはしていない。

7Turn(10/25)

膳所の陥落を見た家康本隊8万は、西軍の勢いに恐れをなして関ヶ原付近まで後退していった。

8Turn(10/28)
膳所を落した西軍諸隊のうち、機動力を有する真田幸村、後藤又兵衛、長宗我部盛親、毛利勝永らが計4万の兵を率いて琵琶湖西岸を北上する。琵琶湖中部西岸に位置する大溝城(2-2)、さらにその奥にある朽木城(2-1)を相次いで落城させていた。こうして琵琶湖西岸に拠点を得た西軍は、次期作戦に備える。
9Turn(11/1)

10Turn(11/4)

援軍を得た家康公の本隊は、再び南近江に進出。愛知川河岸に陣を敷く。
一方の西軍は琵琶湖攻めに任じていた真田幸村以下約4万が西軍本隊の合流。逢坂山の線で野戦築城を行い東軍の突破に備える。


12Turn(11/10)



また西から迫る東軍部隊約8万は、福島正守(1-0)らが守る尼崎城を強襲する。これを一撃の元に落城させていた。








