ベートーヴェン捏造-名プロデューサーは嘘をつく
かげはら史帆 河出文庫
本書は、音楽家ベートーヴェンの秘書であったアントン・シンドラーが行った「会話帳」の改ざんや破棄に迫るノンフィクションである。会話帳とは、耳の聞こえなくなったベートーヴェンが筆談で用いた貴重な史料であり、彼の思想や日常を伝える重要な記録であった。しかしシンドラーは、自分の立場を高めるため、また「苦悩する天才」という英雄像を強調するために、会話帳の多くを削除・改変し、さらには虚偽の解釈を広めていった。本書は、その捏造の実態と影響を明らかにし、ベートーヴェン像がどのように歪められてきたのかを解き明かしている。
読んでいて最も衝撃を受けたのは、交響曲第5番の副題「運命」がシンドラーの捏造であったというくだりである。私は長年、「運命の扉を叩く音」という逸話とともにこの曲を聴いてきた。しかし、それが根拠のない作り話だったと知った瞬間、今まで当然のように受け入れていた音楽史の常識が音を立てて崩れ落ちた。
シンドラーの行為は、歴史を私物化し、後世の人々を欺いた重大な過ちである。いかに彼の演出がベートーヴェンの名声を高め、広める役割を果たしたとしても、その行動を肯定することはできない。真実を意図的に歪めた以上、彼の行為は批判されるべきだ。
ただし、シンドラーという人物自体には強い興味を抱いた。彼は自らの才能や業績ではなく、偉大な芸術家に寄り添うことでしか自己を証明できなかった。その姿は哀れであると同時に、人間の弱さや執着心を象徴する存在でもある。ベートーヴェンを利用しつつも、その人生をすべて彼に捧げてしまったシンドラーの姿には、否定しきれない人間的な魅力があった。
この本は、ベートーヴェンの実像を知る手がかりであると同時に、私たちが「真実」と信じるものがいかに脆く、また人間の意図に左右されやすいかを教えてくれる。歴史における事実と虚構の境界を考えるうえで、非常に示唆に富む一冊であった。
お奨め度★★★★




































