時に元亀3年(1572年)10月。甲斐の雄、武田信玄は、上洛の途についた。立ちはだかるのは総勢7万の兵力を誇る織田・徳川連合軍。史実では、上洛戦の途中で武田信玄が病没したため、武田勢の撤退によって終了している。しかし「もし信玄が病に倒れなかったら?」。本作はそのifに挑んだ野心作である。
「信玄上洛」 (以下、本作)は、元々1980年代にツクダホビーから発表されたシミュレーションゲームである。当時のツクダホビーは、ガンダム等のアニメ作品をテーマとしたゲームと戦車や戦闘艦、航空機等の兵器同士の戦いをテーマとした戦術級(彼らの言葉でいえば「戦闘級」)ゲームを主なラインナップとしていた。そんな中、本作のようないわば正統派の作戦級陸戦ゲーム(しかもWW2ではなく戦国時代)が出版されたことで、私などは少なからず驚いたものである。
本作は、後に「戦国群雄伝シリーズ」と呼ばれる一連の作品の魁となった作品である。群雄伝シリーズの基本システムは、本作によって確立されたといって良い。
本作は1Turnを4つの作戦ステージに分けて、第1作戦ステージ~第4作戦ステージとなっている。各作戦ステージでは、ユニットは移動または戦闘のいずれかを実行できる。加えて武将には「行動力」というパラメータがあり、自身の行動力以下の作戦ステージのみ行動できる。例えば行動力3の秋山信友は、第1~3作戦ステージには行動できるが、第4作戦ステージには行動できない。一方で行動力4の羽柴秀吉は、全ての作戦ステージで行動できる。このことはすなわち羽柴秀吉は自身の判断で秋山信友と交戦可能だが、秋山信友は羽柴秀吉が応じない限り彼を捕捉できない。
武将には行動力の他、野戦修正というパラメータもあり、最強は野戦修正が3の武田信玄、徳川家康、浅井長政、明智光秀。一方で我らが信長様は野戦修正1とやや辛口である。一般に織田・徳川勢は行動力が高く、武田勢は野戦修正が高い。
ユニットには指揮順位があり、指揮順位の高いユニットは、自身よりも低い指揮順位のユニットをユニット数制限の範囲内で配下にできる。配下にできるユニット数はそれぞれ固有のボックスで与えられており、織田信長の場合ボックス数12、武田信玄は8、徳川家康は7である。
戦闘がファイアパワーで、野戦修正の差がダイス修正になる。ダイスは6面体1個で、かつ攻撃側と防御側の両方でダイスを振るので、野戦修正の差は結構デカイ。
スケールについては、1Hex=約6km、1Turn(イニング)=1週間、ユニットは1ステップが500~1000名の兵力を表す。なお、後続の群雄伝シリーズ作品では1ユニット=2ステップで統一されているが、本作だけは1ユニットで2ステップのものと4ステップのものの2種類がある。
基本戦略
武田勢はとにかく西へ向かう。途中で織田・徳川連合軍と交戦してこれを撃破する。戦いに勝って名を挙げれば、自然と畿内地方の状況も武田方が有利となろう。そうなると織田方は益々忙しくなり、武田の西進を止められなくなる。そのことでさらに畿内の情勢が織田方にとって不利になる。つまり武田は現状を打破することで有利な状況を作り出し、それによって雪だるま式に勝利を目指すのが常套戦略と思われる。織田・徳川連合軍の戦略はその逆。つまり現状維持こそが勝利の決め手となる。織田・徳川連合軍にとって主な敵は4つである。最初の敵は言うまでもなく上洛を目指す武田信玄である。次は近江から南下の機会を伺う浅井・朝倉の連合軍。3つ目は伊勢長島に本拠を構える一向宗徒。4つ目は石山本願寺に籠る一向宗徒である。これら4つの強敵を相手とする織田・徳川連合軍の戦略や如何?。
織田・徳川連合軍の戦略としては、Game Journal#52の記事にある通り、織田信長麾下には最小限の兵力を置き、その代わりに優秀な織田軍団の軍団長を使って畿内地方で攻勢を取ることにした。最優先目標は浅井・朝倉連合軍。ここには織田軍団最優秀の明智光秀(3-3-4★、戦闘力-野戦修正-行動力-指揮順位、以下同じ)と次点の丹波長秀(3-2-4★)を投入する。兵力は24ステップ(2万4千)。浅井・朝倉軍の24ステップと兵力は互角だが、指揮能力で勝っているので、攻勢は可能だ。
次に石山本願寺の一向宗と対峙するのは、羽柴秀吉(3-1-4★)麾下の10ステップ(1万)と稲葉良通(3-1-4★)麾下の別働隊2ステップである。石山一向宗は24ステップの大兵力なので織田方からの攻勢は難しいが、北陸戦線に投入した丹波長秀を適宜スイングさせることで対応可能と考える。
次に伊勢湾戦線。ここには柴田勝家(3-2-4★)麾下の12ステップ、織田信長(3-1-4★★)直率の6ステップ、そして別動隊の滝川一益(3-1-4★)麾下の別動隊2ステップを投入する。対する伊勢長島の一向宗は24ステップ。兵力的には織田方がやや不利だが、指揮能力で織田方が勝っている。
武田本隊に対しては徳川家康(3-3-4★★)麾下の16ステップを投入する。しかし武田本隊は36ステップの大兵力を誇り、徳川家康だけでは対抗するのが難しい。従って織田信長本隊から適宜増援を派遣する必要があるだろう。
サイは投げられた。歴史の歯車が今、音を立てて動き出す。
1Turn(10月第1週)
武田信玄(3-3-4★★)が麾下の兵力を率いて躑躅ヶ崎を発して駿河に進出。遠江との国境で国境突破の機会を伺う。同じ頃、織田軍団は畿内各地で攻勢に出る。まず北近江で明智光秀、丹波長秀による浅井・朝倉軍への攻勢は、しかし決定的な戦果は挙げられず、やや手詰まりの感あり。そのため丹波長秀は北近江戦線より南下して羽柴秀吉が担当する石山戦線に向かう。その羽柴秀吉。京に向けて前進してきた一向宗徒率いる下間頼廉(2-0-2★)を大和・山城国境付近で迎え撃ち、これに打撃を与えるも、決定的な戦果を挙げるには至らず。また石山本願寺の別動隊は堺を制圧した。
最後に伊勢戦線。柴田勝家が一向宗を率いる願証寺証恵(2-0-2★)を強襲。平地での戦いであるため柴田勢は一向宗徒をなで斬りにし、11ステップを撃破するという大戦果を挙げた。願証寺証恵は僅かな兵力を率いて長島城に撤退するも、柴田勝家の追撃は急である。
2Turn(10月第2週)
武田信玄が遠江に侵攻した。徳川家康は武田との決戦を回避。石川数正(3-2-3★)を浜松城の守りに残し、残りは岡崎まで撤退していった。京都周辺では、大きな動きはなかったが、武田軍の遠江侵攻に対応すべく、羽柴秀吉麾下の軍団を伊賀経由で伊勢方面に向かわせた。これにより京都周辺に残る織田軍は、小規模な機動兵力を除くと丹波長秀麾下の軍団のみとなった。
伊勢戦線では柴田勝家の猛攻が続いている。伊勢長島城付近で願証寺証恵麾下の一向宗を痛打。これに大損害を与えて事実上戦闘不能とした。伊勢長島の一揆勢はこれにより主要野戦兵力の約半数が戦闘不能となった。
3Turn(10月第3週)
織田方にとって最良のイベントが発生した。「和議交渉」。畿内における反織田勢力の一部が織田方と和議が成立する可能性がある。一向宗は和議の対象外なので、現時点で和議の可能性があるのは、浅井又は朝倉である。結果は「浅井との和議」成立であった。小谷城を守る浅井勢はマップから取り除かれる。まずいのは琵琶湖西岸を南下中の朝倉勢である。朝倉義景(4-0-3★★)麾下の朝倉勢に対し、坂本方面から丹波長秀、琵琶湖北岸を迂回して朝倉勢の背後から明智光秀が迫る。挟撃を受けて退路遮断の危機に陥る朝倉勢は、何とか重囲を突破して木ノ本付近にまで後退した。
伊勢方面では、柴田勝家が一向宗を長島城から追い出し、伊勢街道を南下、追撃する。願証寺証恵は柴田勢を追撃を受けて山中に逃げ込んだが、最早その運命は風前の灯である。
畿内情勢の急転を受けて武田信玄は進撃を開始。浜松城の方位を山県昌景(7-2-4★)に任せ、信玄自身は尾張に進入し、井田城を囲んだ。
つづく
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