時に元亀3年(1572年)10月。甲斐の雄、武田信玄は、上洛の途についた。立ちはだかるのは総勢7万の兵力を誇る織田・徳川連合軍。史実では、上洛戦の途中で武田信玄が病没したため、武田勢の撤退によって終了している。しかし「もし信玄が病に倒れなかったら?」。 「信玄上洛」 (以下、本作)は、そのifに挑んだ野心作である。
今回はソロプレイで本作に挑んでみた。
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4Turn(10月第4週)
畿内の状況が武田方によって不利になってきているので、短期決戦を目指す武田方は後方連絡線をある程度無視する形で強引に前進する。三河から国境を越えて美濃に入り、東美濃の高野、金山城間を通り、犬山城の北側を迂回して岐阜城に迫る。岐阜城は言うまでもなく織田方の本拠地。岐阜城の失陥乃至は被包囲は織田方にとって全面敗北に等しい。岐阜城前面で武田軍の主力と織田・徳川連合軍が激突する。武田の兵力は28ステップ(約28,000人)、織田・徳川連合軍は32ステップ(32,000人)である。ほぼ互角の合戦であったが、火力では鉄砲装備率に勝る織田・徳川連合軍の方がやや勝っていた。(38火力vs48火力)合戦の結果は火力に勝る織田・徳川連合軍が勝利し、敗れた武田勢は総崩れとなって東へ向けて後退していく(岐阜城下の戦い)。織田と武田の最初の激突は織田方の勝利に終わった。
武田にとっては失敗に終わった戦いだが、狙いそのものは悪くなかった。というのも、もしここで武田方が勝利を収めていれば、織田・徳川連合軍は根拠地を完全に失い、その時点で壊滅していた可能性もある。仮に壊滅を免れたとしても、岐阜城の囲みを解かない限り織田方に勝ち目はない。そういった意味で「当たれば大きい」ギャンブルであったといえる。
5Turn(11月第1週)
武田勢はいったん後退すべく美濃・尾張の国境付近を東へ向けて後退していく。しかし織田・徳川の追撃は急であり、武田軍は困難な撤退戦を戦うことになる。殿軍を出して撤退路を確保せんとするが、織田方は機動力のある羽柴秀吉、稲葉良通が左右から退路を遮断する。退路を塞がれた武田本隊は、西から追撃してきた徳川家康本隊に対して武田信玄は三河、尾張、美濃の三境付近で乾坤一擲の合戦を挑んだ。兵力では武田側17ステップ(17,000人)、徳川側14ステップ(14,000人)でほぼ互角。ただし士気で徳川が勝っていた。この戦いで再び大敗を喫したのは武田方である。武田方は再び総崩れとなり後退。しかし士気が-4を下回ったため全軍が消滅。武田信玄もこの地であえない最期を遂げたのである。
結果:織田・徳川連合軍の勝利
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