もりつちの徒然なるままに

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カテゴリ:戦史 > 航空戦

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航空情報2009年5月号

普段は航空雑誌を余り買わないのですが、特集記事に惹かれて購入しました。
「A-10サンダーボルト2」
米空軍の対地攻撃機です。
このA-10というのは不思議な機材で、1970年代後半に登場。当時流行っていた「エ○ア88」なる漫画では「最新鋭機」扱いでしたが、本場米空軍では「電子装備が貧弱」「低速なので対空砲火に脆弱」等と叩かれて、早くも「役立たず」扱いされていた可哀相な機体です。これほど嫌われていたA-10が21世紀に入っても未だに現役。後に登場したF-117や当時の花形F-111よりも長生きしたから世の中わからないものです。

個人的にA-10という機体は嫌いではありません。対地攻撃一辺倒という割り切ったデザインがいかにもアメリカらしい感じがします。スツーカの再来?、あるいはシュトルモビクか?。A-10が傑作機か否かの判断はもう少し時間が必要ですが、A-10という機材が歴史に名を残す機材の一つであることは間違いないでしょう。

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P-40といえば、P-39と並んで「駄作機」という印象の強い機体です。しかしP-40は、P-39、F4Fと共に太平洋戦争初期における連合軍にとって苦しい時期を支えた機材であり、その貢献度は戦争後半に登場してきた新鋭機に優るとも劣りません。
最近では、F4Fが「零戦と互角以上に戦った機材」として評価を高めつつあり、P-39は太平洋戦線ではなく独ソ戦での活躍が評価されています。そんな中、P-40だけが未だに「駄作機」の印象が残っていますが、果たしてP-40が「駄作機」だったのか。
今回はそのあたりを考察してみました。

性能

まず下の表とグラフを見て下さい。

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これはP-40の各モデルとライバル機を比較したものです。最初に初期型であるP-40Cについて見てみましょう。
まず同じ連合軍であるF4F-4と比較した場合、非常に似通った値を示している点が興味深いです。細かく見た場合、速度、馬力荷重ともにF4F-4が僅かですが上回っています。フィリピンでP-40C/Eが零戦に惨敗を喫し、一方空母搭載のF4F-3/4が零戦相手に善戦したのは、性能面での違いが要因にあったのかもしれません。ただ上昇性能だけはF4F-4を上回っています。F4F-4はガダルカナル戦で日本の1式陸攻による中高高度爆撃に苦戦した様が学研の「一式陸上攻撃機」に記されていましたが、P-40Cならば1式陸攻に対して有効な迎撃戦を展開できた可能性があります。

本来のライバルである枢軸軍機と比較した場合、零戦相手には馬力荷重、翼面荷重共に大きく劣っています。速度性能だけは零戦を僅かに凌駕していますが、上昇性能で劣っています。こうして見るとP-40Cに勝ち目はなさそうに思えるのですが、意外や意外、P-40は実は旋回性能がかなり良かったりします。というのもP-40は低空高速域での旋回性能はWW2に登場した単葉戦闘機の中ではトップクラスでした。P-40が零戦や隼といった日本機に苦戦した理由として、低速域での旋回性能がこれらの機材に比べて敵わなかったことがありますが、それよりも上昇性能で日本機に劣っていたため、常に劣位戦を強いられたことが原因だったのかもしれません。

相手がBf-109Fとした場合、今度は翼面荷重でBf-109を凌駕しますが、馬力荷重や速度性能で完全に水を開けられています。これだけ速度性能に差があると、最早対等に戦うことは不可能でしょう。P-40は多くの場合、Bf-109の速度性能に翻弄され、唯一の勝機は機体の頑丈さを生かした一撃離脱戦法しかなさそうです。

次に後期型であるP-40Kを見てみましょう。
まず米海軍のF4F-4を比較した場合、翼面荷重ではF4F-4に劣っていますが、馬力荷重で大きく優り、速度性能でも上回っています。P-40KクラスになるとF4F-4程度であれば、速度性能を利用して優位に戦いを進めることができそうです。ただ気になるのは上昇性能の悪さです。初期型であるP-40Cよりも劣っているというのはどういう訳でしょうか。

零戦21型との比較においては、翼面荷重や上昇性能では敵わないものの、速度性能では凌駕し、馬力荷重もかなり近づいています。これに持ち前の頑丈さと火力をミックスした場合、零戦相手でもかなり善戦できたのではないでしょうか。Bf-109Fとの比較においては、相変わらず速度性能では敵いません。コチラの場合も火力と防弾性そして機体の頑丈さを生かした戦術が中心になりそうです。

戦歴

フライングタイガース

中国戦線におけるフライングタイガースの活躍は、その指揮官クレア、リー、シェンノートの名前と共に有名です。同方面で対決した日本機は主にキ27、キ43といった日本陸軍の戦闘機やキ21、キ48といった爆撃機です。軽快な日本戦闘機と比較した場合、P-40の強みは良好な火力、適切な防弾装備、水平及び降下時における速度面の優越、そしてロール性能の優越です。
彼ら自身の報告によれば、撃墜286機に対して損失19機。実際の戦果は左記の1/3~1/2程度である100機前後といった所が妥当な線でしょうが、それでも日本機相手に善戦したことは間違いありません。

フィリピン、蘭印戦

日米開戦当初、米軍はフィリピンに4個戦闘機中隊計72機のP-40C/Eを配備していました。彼らは開戦劈頭の日本機による奇襲攻撃により大損害を被りましたが、それでも一部は果敢な迎撃戦を展開しました。開戦初日の戦いでは、P-40は計9機が被撃墜又は不時着、零戦は7機を失いました。P-40の損害は一部に燃料切れが含まれており、零戦も地上砲火によるものが含まれているため、両者の実際の戦果、損害はハッキリしません。日本側は撃墜確実15、撃墜不確実7を記録、米軍は10機前後の撃墜を報じています。
その後蘭印に後退したP-40部隊は、第17(臨時)追撃飛行隊を編成。蘭印を巡る攻防戦で損害17機と引き換えに日本機49機の撃墜を記録しました。実際の戦果はこの数分の一ですが、日本側が記録した戦果と連合軍側のそれのあまりの違いに驚かされます。

南西太平洋方面

ニューギニア及びオーストラリア北部におけるP-40の活躍は、第49戦闘グループをなしに語ることはできないでしょう。フィリピン、ジャワから撤退してきた部隊が中心になって再編成された第49戦闘グループは、1942年3月からはオーストラリア北東部のダーウィンにて活動を開始しました。当初は身軽な日本機相手に苦戦を強いられましたが、次第に自機の特徴を生かした戦法を身につけていきました。それにつれて戦果:損害比は次第に向上していき、最終的には第49戦闘グループのP-40による撃墜数は318機に達しました。
計14機(うちP-40で10機)の撃墜を達成し、第49戦闘機グループのトップエースとなったロバート・デヘブンは、以下のようにP-40の性能を高く評価しています。

パイロットが賢明であれば、P-40は大変有能な機体であった。多くの点においてP-40はP-38を上回っていた。実際何人かのパイロットはP-40からP-38への機種転換を行わなかった。私が生き残ることができたことや任務を達成できたことは、いずれもP-40のおかげである。P-40の真の欠陥は航続距離の欠如である。我々が日本軍を押し返すにつれて、P-40のパイロット達はゆっくりと戦争の圏外に取り残されていった。そして私がP-38に移行した時、私はその理由としてP-40が劣った戦闘機だからではなく、P-38ならば敵地まで飛んでいけるからだと知っていた。私は戦闘機パイロットであり、それが私がなすべきことだったからだ。

先にも記した通り、P-40は高速域での旋回性能で日本機よりも優っていました。そこで彼らは常に高速域で日本機の戦おうとしました。いわゆる「低速ヨーヨー戦法」です。F4Fの場合は単機性能で零戦に劣っている分をチームワークで補いましたが、P-40の場合は機体の特性を生かすことによって1対1でも零戦相手に互角以上に渡り合えるようになったのです。


ソロモン方面

意外と知られていないのですが、P-40がガダルカナルに進出したのは1943年に入ってからでした。米陸軍第18戦闘グループがガダルカナルに移動したのが1943年初頭のことであり、その後ニュージーランド空軍(RNZAF)のキティーホークが同年4月にガダルカナル島へ進出しました。同方面におけるP-40の活躍は判然としませんが、例えば米陸軍の第44戦闘中隊は、凡そ半年の間に損失3機に対して撃墜57機を記録しました。日本側の印象はとにかくとして、同方面でのP-40は「かなり活躍した」と評価されているようです。

地中海戦線

英空軍が北アフリカ戦線に「キティーホーク」(P-40の英国側呼称)を投入したのは1941年初頭でした。当時、同方面の主力機だった「ハリケーン」戦闘機に比べると、「キティホーク」はあらゆる面で優れていると見なされていました。また枢軸軍機と比べた場合も、Bf-109相手の場合は高高度性能では劣るものの低空性能では優っているため必ずしも不利とはいえず、フィアットG-50やマッキC200といったイタリア機よりも全般的に優っていました。ただ新型のBf-109FやマッキC202に比べると見劣りする面が多かったようです。
地中海戦域におけるP-40の活躍は全般に「優良」と評して良いものでした。例えば英連邦軍の第239ウィングは、1941年6月以降の2年間でP-40による撃墜383機を記録し、損害は100機でした。また後に地中海戦域に登場した米陸軍の場合も、例えば第325戦闘グループは1943年8月から10月にかけてBf-109 95機を含む133機の撃墜を記録し、損失は僅かに17機でした。
無論戦場における戦果報告は過大になるのが常であり、上記の記録を鵜呑みにすることはできません。しかし少なくともP-40が地中海戦線で「相応の」活躍をしていたことは確かです。

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空母「バンカーヒル」艦上で発艦準備中のF4U-1D「コルセア」戦闘機。「コルセア」の爆弾搭載量は最大3200~4000ポンドにも達し、日本軍重爆の1.5~2倍近くに達した

米海軍艦上戦闘機の爆装


F6F-5 :最大3,000ポンド
F4U-1D:最大4,000ポンド

上の数値は言うまでもなくWW2で活躍した米艦上戦闘機の最大搭載量です。
一言で3000ポンドとか4,000ポンドとか書いていますが、トン数に直せば1.35~1.8トン。これは250kg爆弾1発を装備する日本海軍の艦上爆撃機と比して5~7倍に相当する量です。つまり単純計算で1機の「ヘルキャット」や「コルセア」は「九九艦爆」の5~7倍の攻撃力を有していることになります。

しかも上記の数値は単なる「カタログスペック」ではなく、実戦での搭載例もあったそうです。

驚くべきことに、この搭載量は「アベンジャー」や「ヘルダイバー」といった米海軍の艦攻、艦爆の標準的な搭載量よりも多かったのです(前者の標準的な搭載量は2,000ポンド、後者は1,000~2,000ポンド)。

単座の戦闘機でこれだけ大量の多くの爆弾を搭載できるとなると、あえて艦爆や艦攻といった機体を空母に搭載する必要はなかったかもしれません。事実、米海軍空母部隊を指揮する海将達は、艦爆、艦攻を全廃し、空母上の搭載機を全て艦戦で統一したいという希望を表明するものが少なくなかったような・・・・。特に評判の悪い「ビースト」=SB2C「ヘルダイバー」なんてさっさと下ろしてしまえ、というのが海将達の偽らざる心境だったのでしょう。

米空母艦上で艦爆や艦攻が生き残り続けたのは、何らかの合理的な判断というよりは、むしろ過去からの慣習と軍事的合理性以外の「何か」による影響が大きかったのかもしれません。

<余談1>
とはいっても実戦での搭載例を見ると、「ヘルキャット」「コルセア」両機ともそれほど極端な兵装搭載は行っていないようです。護衛戦闘機も爆装させるのが当たり前になっていた1944年においても、これら両機の実戦下における搭載量は精々500ポンド爆弾1~2発、または5インチロケット弾4~8発だったそうです。同じ時期に「ヘルダイバー」は1000ポンド乃至2000ポンドの爆弾、「アベンジャー」は2,200ポンド航空魚雷か最大2,000ポンドまでの爆弾を搭載していたそうです。そう考えると実戦的な環境下での搭載量は、「ヘルダイバー」「アベンジャー」の方が優れていたのかも知れません。

<余談2>
単にカタログスペックということであれば、「ヘルダイバー」は
  (1) 胴体内に2,200ポンドまでの爆弾又は航空魚雷
  (2) 翼下に500ポンド爆弾計2発
  (3) 翼下に重量140ポンドのHVAR(高速航空機用ロケット)計8発
を搭載できます。この場合、最大搭載量は4,320ポンドとなり、「コルセア」を凌駕します。

一方「アベンジャー」の場合、
  (1) 胴体内に2,200ポンドまでの爆弾又は航空魚雷
  (2) 翼下に500ポンド爆弾最大4発
を搭載でき、この場合の搭載量は4,200ポンドです。これも「コルセア」を凌駕します。

<余談3>
この例に限らず、航空機の爆弾搭載量については、カタログスペックと実戦的な値の乖離が大きく、我々ゲームデザイナー泣かせです。
例えばB-25、B-26といった中型爆撃機は、カタログスペックでは2トン近い搭載量を誇りますが、実戦下での搭載量はどの程度だったのか。あるいはカタログスペックでは7トン近い搭載能力を誇るF-16やF/A-18は、何故湾岸戦争の際に500ポンド爆弾6発とか1000ポンド爆弾2発といった程度の爆装しかしなかったのか。


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フォッケウルフ戦闘機

鈴木五郎 光人社NF文庫

フォッケウルフといえば、10人中ほぼ10人がFw-190シリーズ戦闘機を思い浮かべるでしょう。Fw-190はそれほどに有名な機体であり、フォッケウルフという会社名がFw-190シリーズの代名詞になっているのもぬべなるかなです。
本書は、Fw-190の歴史について記したものです。フォッケウルフ社の誕生から始まり、ナチスの台頭とフォッケウルフ社の伸張。Fw-190の開発と実戦への投入。Fw-190と連合軍機、あるいはMe-109とのライバル争い。エース達の活躍。Fw-190D、Ta-152といった新鋭機の登場とナチスドイツの敗北を描きます。「これは」といった目を引くような記述こそありませんが、Fw-190という機体を語る際に押えるべき点は押えてあるという感じです。
マニアックな描写こそあまりありませんが、Fw-190という機体について概略を知るには良い著作ではないでしょうか。

お奨め度★★★

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前回、Tillman氏の「Corsair」に関する記事を作成する際、ふとコルセア戦闘機の系譜について興味を持ちました。コルセアはヘルキャットやワイルドキャットといったグラマン系列の戦闘機に比べると活躍期間が長く、その分多用な任務に用いられたためバリエーションも豊富です。それらを見比べてみると、意外な事実に近づくことができるかもしれません。

そこで今回は前回取り上げなかったコルセア戦闘機の中で、特に面白そうな機材を選んでみました。


F4U-5

イメージ 2F4U-4の後継モデルで、エンジンを離昇推力2,450hpのP&W R-2800 32W(E)とした。水噴射実行時には2,760hpを発揮し、その最大速度は実に756km/h、海面上昇率は1,152m/minに達した。ここまで来ると紫電改や烈風といった同時期の日本機では殆ど太刀打ちできなかったであろうことが容易に想像できる。ライバルF6Fと比較しても、この時点で最大水平速度で100km/h以上の優越を示し、ある意味「ヘルキャットに引導を渡した機体」と言えるかもしれない(注1)。武装も強化され、固定火器が20mm機関砲4門、機外にも最大5,000lbまでの搭載が可能となった。
このようにレシプロ戦闘機としては傑出した性能を持つ「ダッシュ5」であったが、時代はこのような戦闘機を必要とはしていなかった。いかな高性能レシプロ機であってもジェット戦闘機に敵うはずもなく、レシプロ機の主要任務は低空性能と搭載量を生かした対地攻撃に移っていった。そのためかF4U-5の総生産機数も計223機に留まった(注2)。戦争があと2年続けばF8Fを押しのけて主力艦戦として活躍したかもしれない隠れた名機は、南米での局地戦争に僅かにその名を留めた後、歴史の舞台から姿を消した。

(注1)本当の所はF4U-4がその称号に相応しい機体なんでしょうけど・・・・
(注2)F4U-4の総生産機数は2,356機


F4U-5N

イメージ 3このF4U-5Nは、実はコルセアシリーズ初の本格的夜戦といえる。前回紹介したF4U-2がコルセアシリーズの中で初の夜戦モデルであったが、所詮は既存機体の改造に過ぎず、生産機数も限られていたため、本格的な夜戦モデルとは言い難かった。
F4U-5Nは、-5の機体をベースとし、右翼前縁にAN/APS-19Aレーダーを搭載した夜戦モデルである。総生産機数は214機で、他に準同型ともいうべき-5NLが72機新たに生産されている。
F4U-5Nは朝鮮戦争にも参戦し、計5機の夜間撃墜を記録した他、ジェット夜戦では撃墜困難な低速機(ポリカルポフPo-2等)の夜間邀撃に活躍した。


F2G

イメージ 4日本の特攻機に対抗するためにグッドイヤー社で開発を進めていた低空迎撃機。離昇出力3,000hp(水噴射時3,600hp)のXR-4360-4「ワスプメジャー」を搭載し、海面上における速度は644km/h、海面上昇率は2,286m/minという性能を叩き出した。
「スーパーコルセア」とも呼ばれた同機。しかしバケモノのようなエンジンを搭載した割に、上昇性能を除く諸性能はそれほど傑出したものではなく、武装等はむしろF4U-4よりも見劣りするものであった。高高度性能もF4U-4に遠く及ばず、さらには低空迎撃機自体の必要性が薄れたため、結局同機の生産は少数で終わっている。現在、少数機がレーサーとして活躍している。

AU-1

イメージ 5海兵隊の要求で作られた地上攻撃機。デジグネーションが"F"(戦闘機)ではなく"A"(攻撃機)になってしまったのがちょっと悲しい。F4U-5をベースとし、機体下面と操縦席周囲に防弾装備が施されている。外翼パイロンは10個所になり、最大5000lb以上の外部兵装搭載が可能となった。装備が増えたために機体自体の重量は増したが、それでも最大速度700km/h以上を発揮するのはさすがである。朝鮮戦争に参加した。


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