もりつちの徒然なるままに

ウォーゲームの話や旅の話、山登り、B級グルメなどの記事を書いていきます。 自作のウォーゲームも取り扱っています。

タグ:信玄上洛

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時に元亀3年(1572年)10月。甲斐の雄、武田信玄は、上洛の途についた。立ちはだかるのは総勢7万の兵力を誇る織田・徳川連合軍。史実では、上洛戦の途中で武田信玄が病没したため、武田勢の撤退によって終了している。しかし「もし信玄が病に倒れなかったら?」。 「信玄上洛」 (以下、本作)は、そのifに挑んだ野心作である。

前回までの展開は --> こちら

13Turn(1月第1週)

14Turn(1月第2週)

馬場信春年が変わった。武田勢は遠江から三河に侵攻する。さらに勢いは止まらず遂に尾張へ進入した。織田方は畿内戦線から明智光秀と滝川一益を急遽尾張に急派し、兵力の増強を図る。これにより尾張国内の織田・徳川連合軍は、徳川麾下の14ステップ(14,000人)と織田家臣団が18ステップ(18,000人)となり、合計32,000人。尾張・三河方面の武田勢は合計34ステップ(34,000人)で、両者はほぼ拮抗した。

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畿内では観音寺城を守る一向一揆勢を丹波長秀、羽柴秀吉の連合軍が攻め立てる。観音寺城の守将は一向一揆勢の下間頼廉(2-0-2★)。集中攻撃を受けて壊滅的な損害を被っていた。

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15Turn(1月第3週)

16Turn(1月第4週)

下間仲孝下間頼廉が織田方の集中攻撃を受けて討ち取られた。一向一揆勢も残るは下間仲孝(2-0-2★)の率いる軍勢だけである。下間仲孝は単独で織田方に抗するのは不利と判断し、観音寺城に守備隊を残し、残りは北近江の浅井勢と合流すべく北上する。

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尾張・三河国境では、武田勢の主力と織田・徳川連合軍の機動戦が続いている。両軍とも兵力はほぼ互角なので、決め手を欠きつつ丁々発止の駆け引きが続いている。

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17Turn(2月第1週)

18Turn(2月第2週)

浅井長政和議が成立し浅井長政が反織田勢から脱落した。反織田勢で残っているのは、一向一揆勢と武田勢のみである。大勢は決した。下間仲孝率いる一向一揆勢は北近江の虎御前山付近で追い詰められ、四方から織田勢の集中攻撃を受けるに至っている。尾張に侵攻した武田勢は短期決戦を求めて岐阜に向けて進撃するが、決戦を急ぐ必要がない織田勢は適当にあしらいつつ、武田勢主力を東美濃で後方を遮断した。

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19Turn(2月第3週)

20Turn(2月第4週)

武田信玄 武田勢は最後の奇跡を求めて岐阜城下に向けて進撃する。織田・徳川連合軍は岐阜城の東方3里の位置に達した武田勢に対し、迎撃部隊を差し向けた。武田勢は28ステップ(28,000人)。対する織田・徳川連合軍は、徳川家康14ステップ(14,000人)、明智光秀12ステップ(12,000人)、柴田勝家10ステップ(10,000人)の計36,000人。さらに織田勢は鉄砲装備でも武田勢を上回っていた。
兵力に劣る武田勢であったが、奮戦した。最初の2ラウンドは武田と織田・徳川軍はそれぞれ同数の損害で一歩も引かなかった。しかし第3ラウンドで織田・徳川方が僅かに戦闘結果で勝り、武田勢は総崩れとなった。この撤退の最中で大損害を受けた武田勢は。それでも東美濃の山中に向けて後退を続けたが、最後は岐阜から追ってきた徳川家康と明智光秀らの退路をふさがれ、哀れ、武田信玄。東美濃の山中であえない最期を遂げたのである。

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感想

今回も織田・徳川方の勝利になったが、バランス上どちらが有利かは判然としない。特に一向一揆の補充力が巨大なので、織田方が簡単に勝てるという訳でもないと思う。
一向一揆勢は連絡線が不要なので、盤上どこでも暴れまわることができる。それに対して織田方が一向一揆勢に対して攻勢を仕掛けるためには、最低打撃力を有する2個軍団以上は欲しい所だ。しかし織田・徳川連合軍が保有する機動打撃兵力は、織田が4個、徳川が1個の計5個に過ぎない。その中から2個を一向一揆勢のために割くのは如何にもキツイ。また武田本隊の決戦には最低2個軍団以上が必要になる。そう考えると、織田・徳川方もギリギリの線で戦っていることがわかる。
今回織田方で失敗したと思ったのは、京を早期に放棄したこと。7VP確保すれば浅井・朝倉が脱落する確率が最高になるので、その後は兵力節約のために京から撤退したが、これは少し早すぎた。一向一揆勢や武田の攻勢によって織田・徳川方の城が落ちると同陣営のVPが減るので、2つほど城が落ちると安全圏を割ってしまう。何よりも京との連絡線を保持しないと織田方にとってVPを獲得する手段がなくなってしまう。従って織田方にとって京との連絡線はギリギリまで粘った方が良かったかもしれない。
とはいえ、武田本隊が急進してくると、織田方としても決戦兵力を捻出するしかない。武田と少なくとも互角に戦うためには、9ユニット(1.5個軍団)程度の織田軍勢を徳川に加勢する必要がある。もう少し少ないユニット数(例えば1個軍団6ユニット)でも戦えなくはないが、勝率は下がってしまう。武田との決戦はゲームの勝敗に直結するので、織田方にとっては難しい判断が迫られる。

一方の武田勢は、主導権が織田方にあることを認識して「ライヘンバッハプラン」のような戦い方が有効と考える。織田方は、その気になれば武田軍主力を撃破し得る兵力を集中できる。ただし決戦を回避するだけの機動力が武田方にはある。従って武田方としては、織田方の兵力展開を見極めつつ、「押しては引き、引いては押す」戦略が有効と考える。

上にも書いたが、本作で勝敗に大きくかかわるのが織田・徳川連合軍と武田本隊との決戦である。この決戦はダイス勝負になるので、最後は運に頼ることになる。ただし勝敗の確率は状況によって変動させることができる。
まず兵力。言うまでもないが兵力が多いほうが有利である。これについては武田勢が一定以上の兵力を集結させることができないのに対し(一向一揆勢と合流することは可能)、織田・徳川連合軍は自由に兵力を融通できる。従って決戦場に展開可能な兵力で言えば、織田・徳川連合軍が主導権を握っている。ただし50戦力以上集めても実質的な意味がないので、武田勢も現有兵力である程度は対抗可能だ。
次に野戦能力。これは武田信玄と徳川家康がいずれも野戦修正3なので互角。ただし徳川家康が本拠地(浜松)との連絡線を断たれた状態で戦うことが多くなるので、やや不利になる。徳川家康の連絡線対策は、第4ステージ終了時に城に籠城させるのが有効と思われる。
最後に連絡線。連絡線を切られると士気値が-1される。先にも書いたが徳川家康が連絡線を切られているのでやや不利。一方武田勢は状況による。後方の城を押さえながら慎重に前進するとか、遠江などの武田領地に近い場所で決戦する分にはあまり心配する必要がないが、尾張、美濃に急進した場合、織田方の小部隊によって連絡線を遮断される危険がある。兵力不足で機動力の高い部隊を分派させ辛い武田方にとって、織田方の小兵力機動作戦はかなり鬱陶しいだろうと思う。
いずれにしても上記の状況を勘案し、自軍が有利な状態に持ち込んで、あとはダイスに全てを賭けるしかない。それで敗れれば運がなかったと思って諦めよう。また互角の状況や自身が不利な状況で決戦に挑むかどうかはプレイヤーの性格による。決戦は両者の合意の元で行うのが原則なので、プレイヤーの性格が出る場面だ。

いずれにしても「信玄上洛」は面白い。何か裏技があるのかもれないが、素直にプレイする分には両プレイヤー共楽しめる傑作ゲームだと思う。

Game Journal 87-新信長風雲録 Game Journal 82-孤高の信長 コマンドマガジン Vol.178『碧蹄館の戦い』 Game Journal 80-長元記
武田信玄 伝説的英雄像からの脱却 武田信玄:風の巻 戦況図解 信長戦記 信長伝

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時に元亀3年(1572年)10月。甲斐の雄、武田信玄は、上洛の途についた。立ちはだかるのは総勢7万の兵力を誇る織田・徳川連合軍。史実では、上洛戦の途中で武田信玄が病没したため、武田勢の撤退によって終了している。しかし「もし信玄が病に倒れなかったら?」。 「信玄上洛」 (以下、本作)は、そのifに挑んだ野心作である。

前回のソロプレイ では、武田軍が初期にギャンブルに出て、それが裏目に出たため僅か5Turnで武田信玄討死という結果になってしまった。そこで今回は両軍ともギャンブルを避けて慎重なプレイに徹することにした。また前回のプレイでルールミスがあったため(一向一揆勢が毎ステージにフリーで1回補充できることを失念)、その点もちゃんとやり直したいと思っていた。
それでは早速プレイを始めよう。

1Turn(10月第1週)

2Turn(10月第2週)

武田信玄武田軍が国境を越えて遠江に進入する。山県昌景(7-2-4★、戦闘力-野戦修正-行動力-指揮順位、以下同じ)は、石川数正(3-2-3★)が守る浜松城を包囲し、穴山信君(2-1-3★)は北の二俣城を包囲する。武田信玄(2-3-4★★)麾下の武田勢主力は、三河に進入して野田城を囲む。さらに信濃南部からは秋山信友(7-1-3★)が織田方の岩村城を囲んだ。

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伊勢湾方面からは願証寺証恵(2-0-2★)率いる一向一揆勢が織田の本拠地である岐阜城に向けて北上する。それに対して織田方は猛将柴田勝家(3-2-4★)が迎撃に向かう。一向一揆勢は織田の重要拠点である清州城を囲んだ。

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畿内方面でも一向一揆勢が京に向けて進撃を開始し、それを羽柴秀吉(3-1-4★★)、丹波長秀(3-2-4★★)らがそれを迎え撃つ。また北からは浅井・朝倉勢が明智光秀(3-3-4★★)、滝川一益(3-1-4★★)らと対峙する。
しかし第2Turnに朝倉と織田の間で和議が成立。朝倉が反織田戦線から脱落した。これにより少し織田勢が兵力運用に余裕が出てきた。

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3Turn(10月第3週)

願証寺証恵織田勢は戦線縮小の為、京都を放棄し関ヶ原の線まで撤退する。そして関ヶ原を丹波長秀が守る。近江以西は織田方の軍事力が及ばない地域となった。その間隙を付いて一向一揆勢が坂本、大津の2城を囲む。


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尾張では明智光秀、柴田勝家、そして徳川家康(3-3-4★★)が一向一揆制圧に動く。一揆勢は織田・徳川正規軍の攻撃を受けるとさすがに耐え切れず、清州の囲みを解いて後退していく。

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4Turn(10月第4週)

5Turn(11月第1週)

羽柴秀吉織田方は尾張平野で跋扈する一向一揆勢を制圧しつつ、織田信長(3-1-4★★)、羽柴秀吉(3-1-4★)、徳川家康の3名を三河方面に向かわせる。その任務は武田信玄との決戦にある。兵力は信長直率が6ステップ(6,000人)、秀吉麾下が12ステップ(12,000人)、家康麾下の三河勢が14ステップ(14,000人)である。合計32ステップ(32,000人)で、武田軍主力の32,000人と拮抗する。

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また柴田勝家麾下の12,000人は中仙道を東に向かい、岩村城を囲む武田勢の秋山信友と対峙する。
尾張平野では明智光秀が一向一揆を追い回すが、無限の補充能力を持つ一揆勢に苦戦を強いられている。
そして関ヶ原では丹波長秀が守りを固めている。
関ヶ原の西側では織田勢が姿を消したため、一揆勢がやりたい放題。坂本城と大津城を囲んだ一揆勢は陥落まであと一歩に追い込んだ。また浅井長政(2-3-4★★)も鳥なき里の蝙蝠よろしく、近江における織田方の出城である横山城を包囲した。

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6Turn(11月第2週)

織田・徳川連合軍は武田軍主力との決戦に備えてジリジリと浜松に近づく。武田勢は野田、二俣両城の囲みを解いて決戦に備える。
伊勢・近江国境では、明智光秀が遂に一向一揆勢を追い詰めた。服部友定(2-0-2★)を近江山中で討死に追い込んだのである。
畿内では遂に大津城が一揆勢の攻勢を受けて落城した。

7Turn(11月第3週)

織田信長織田・徳川連合軍が浜松城外に到着した。武田勢は浜松に向けて遅退戦術で後退していったが、浜松城下まで後退してきたとき、これ以上後退できないと判断した武田勢はここで決戦を挑んだ。武田勢は32ステップ(32,000人)、対する織田・徳川連合軍は、滝川一益の増援部隊が加わっていたため36ステップ(36,000人)であった。
戦いは織田・徳川連合軍の勝利に終わり、武田勢は実に10ステップもの損害を出したが、除去されたユニットがなかったのは武田にとっては不幸中の幸いであった。

写真08


8Turn(11月第4週)

9Turn(12月第1週)

徳川家康内陸部に雪が降った。雪の降りしきる信濃路に傷ついた武田軍は後退していく。一方の織田・徳川連合軍は、徳川家康が武田本隊追撃のため北に向かう。残り織田軍団は西へ向かう。最後の敵、一向一揆を撃破し、京への連絡路を再度打通するためである。まずは尾張に跋扈していた一向一揆派の願証寺証恵(2-0-2★)を殲滅。尾張平野一帯は織田方の平定するところとなった。

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畿内では、大津城に続いて坂本城が一揆勢の攻撃により落城し、京への東側の入り口が一揆勢に抑えられる形となった。一揆勢はなおも湖東を進み、観音寺城を囲んだ。

写真10


10Turn(12月第2週)

11Turn(12月第3週)

明智光秀信濃路では、本拠地に戻った武田信玄が戦力を回復した。武田勢を追って信濃路まで攻め込んだ徳川家康軍は、逆撃の危機に瀕して後退を開始する。



写真11


畿内では、東近江から一揆勢をすり抜けて明智光秀が京に到達した。

写真12


12Turn(12月第4週)

明智光秀が京を奪回した。一方信濃路では、武田勢の逆撃によって徳川家康本隊は遠江まで撤退を余儀なくされた。

(つづく)

Game Journal 87-新信長風雲録 Game Journal 82-孤高の信長 コマンドマガジン Vol.178『碧蹄館の戦い』 Game Journal 80-長元記
武田信玄 伝説的英雄像からの脱却 武田信玄:風の巻 戦況図解 信長戦記 信長伝

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時に元亀3年(1572年)10月。甲斐の雄、武田信玄は、上洛の途についた。立ちはだかるのは総勢7万の兵力を誇る織田・徳川連合軍。史実では、上洛戦の途中で武田信玄が病没したため、武田勢の撤退によって終了している。しかし「もし信玄が病に倒れなかったら?」。 「信玄上洛」 (以下、本作)は、そのifに挑んだ野心作である。
今回はソロプレイで本作に挑んでみた。

前回までは --> こちら

4Turn(10月第4週)

織田信長畿内の状況が武田方によって不利になってきているので、短期決戦を目指す武田方は後方連絡線をある程度無視する形で強引に前進する。三河から国境を越えて美濃に入り、東美濃の高野、金山城間を通り、犬山城の北側を迂回して岐阜城に迫る。岐阜城は言うまでもなく織田方の本拠地。岐阜城の失陥乃至は被包囲は織田方にとって全面敗北に等しい。岐阜城前面で武田軍の主力と織田・徳川連合軍が激突する。武田の兵力は28ステップ(約28,000人)、織田・徳川連合軍は32ステップ(32,000人)である。ほぼ互角の合戦であったが、火力では鉄砲装備率に勝る織田・徳川連合軍の方がやや勝っていた。(38火力vs48火力)

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合戦の結果は火力に勝る織田・徳川連合軍が勝利し、敗れた武田勢は総崩れとなって東へ向けて後退していく(岐阜城下の戦い)。織田と武田の最初の激突は織田方の勝利に終わった。

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武田にとっては失敗に終わった戦いだが、狙いそのものは悪くなかった。というのも、もしここで武田方が勝利を収めていれば、織田・徳川連合軍は根拠地を完全に失い、その時点で壊滅していた可能性もある。仮に壊滅を免れたとしても、岐阜城の囲みを解かない限り織田方に勝ち目はない。そういった意味で「当たれば大きい」ギャンブルであったといえる。

5Turn(11月第1週)

徳川家康武田勢はいったん後退すべく美濃・尾張の国境付近を東へ向けて後退していく。しかし織田・徳川の追撃は急であり、武田軍は困難な撤退戦を戦うことになる。殿軍を出して撤退路を確保せんとするが、織田方は機動力のある羽柴秀吉、稲葉良通が左右から退路を遮断する。退路を塞がれた武田本隊は、西から追撃してきた徳川家康本隊に対して武田信玄は三河、尾張、美濃の三境付近で乾坤一擲の合戦を挑んだ。兵力では武田側17ステップ(17,000人)、徳川側14ステップ(14,000人)でほぼ互角。ただし士気で徳川が勝っていた。

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この戦いで再び大敗を喫したのは武田方である。武田方は再び総崩れとなり後退。しかし士気が-4を下回ったため全軍が消滅。武田信玄もこの地であえない最期を遂げたのである。

結果:織田・徳川連合軍の勝利

感想

明智光秀うーん、ソロプレイだからもう少し慎重なプレイを心掛けるべきでした。ギャンブルに走ったため、展開は派手になったものの、早期に終了を迎えたのは少し残念です。できれば再度プレイし、もう少し結果を見てみたい気がします。降雪の効果や一向宗の攻勢など、今回あまり見ることができなかった様々な事象も是非見てみたい気がします。


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時に元亀3年(1572年)10月。甲斐の雄、武田信玄は、上洛の途についた。立ちはだかるのは総勢7万の兵力を誇る織田・徳川連合軍。史実では、上洛戦の途中で武田信玄が病没したため、武田勢の撤退によって終了している。しかし「もし信玄が病に倒れなかったら?」。本作はそのifに挑んだ野心作である。

「信玄上洛」 (以下、本作)は、元々1980年代にツクダホビーから発表されたシミュレーションゲームである。当時のツクダホビーは、ガンダム等のアニメ作品をテーマとしたゲームと戦車や戦闘艦、航空機等の兵器同士の戦いをテーマとした戦術級(彼らの言葉でいえば「戦闘級」)ゲームを主なラインナップとしていた。そんな中、本作のようないわば正統派の作戦級陸戦ゲーム(しかもWW2ではなく戦国時代)が出版されたことで、私などは少なからず驚いたものである。

本作は、後に「戦国群雄伝シリーズ」と呼ばれる一連の作品の魁となった作品である。群雄伝シリーズの基本システムは、本作によって確立されたといって良い。
本作は1Turnを4つの作戦ステージに分けて、第1作戦ステージ~第4作戦ステージとなっている。各作戦ステージでは、ユニットは移動または戦闘のいずれかを実行できる。加えて武将には「行動力」というパラメータがあり、自身の行動力以下の作戦ステージのみ行動できる。例えば行動力3の秋山信友は、第1~3作戦ステージには行動できるが、第4作戦ステージには行動できない。一方で行動力4の羽柴秀吉は、全ての作戦ステージで行動できる。このことはすなわち羽柴秀吉は自身の判断で秋山信友と交戦可能だが、秋山信友は羽柴秀吉が応じない限り彼を捕捉できない。
武将には行動力の他、野戦修正というパラメータもあり、最強は野戦修正が3の武田信玄、徳川家康、浅井長政、明智光秀。一方で我らが信長様は野戦修正1とやや辛口である。一般に織田・徳川勢は行動力が高く、武田勢は野戦修正が高い。
ユニットには指揮順位があり、指揮順位の高いユニットは、自身よりも低い指揮順位のユニットをユニット数制限の範囲内で配下にできる。配下にできるユニット数はそれぞれ固有のボックスで与えられており、織田信長の場合ボックス数12、武田信玄は8、徳川家康は7である。
戦闘がファイアパワーで、野戦修正の差がダイス修正になる。ダイスは6面体1個で、かつ攻撃側と防御側の両方でダイスを振るので、野戦修正の差は結構デカイ。
スケールについては、1Hex=約6km、1Turn(イニング)=1週間、ユニットは1ステップが500~1000名の兵力を表す。なお、後続の群雄伝シリーズ作品では1ユニット=2ステップで統一されているが、本作だけは1ユニットで2ステップのものと4ステップのものの2種類がある。

基本戦略

武田勢はとにかく西へ向かう。途中で織田・徳川連合軍と交戦してこれを撃破する。戦いに勝って名を挙げれば、自然と畿内地方の状況も武田方が有利となろう。そうなると織田方は益々忙しくなり、武田の西進を止められなくなる。そのことでさらに畿内の情勢が織田方にとって不利になる。つまり武田は現状を打破することで有利な状況を作り出し、それによって雪だるま式に勝利を目指すのが常套戦略と思われる。

織田・徳川連合軍の戦略はその逆。つまり現状維持こそが勝利の決め手となる。織田・徳川連合軍にとって主な敵は4つである。最初の敵は言うまでもなく上洛を目指す武田信玄である。次は近江から南下の機会を伺う浅井・朝倉の連合軍。3つ目は伊勢長島に本拠を構える一向宗徒。4つ目は石山本願寺に籠る一向宗徒である。これら4つの強敵を相手とする織田・徳川連合軍の戦略や如何?。

織田・徳川連合軍の戦略としては、Game Journal#52の記事にある通り、織田信長麾下には最小限の兵力を置き、その代わりに優秀な織田軍団の軍団長を使って畿内地方で攻勢を取ることにした。最優先目標は浅井・朝倉連合軍。ここには織田軍団最優秀の明智光秀(3-3-4★、戦闘力-野戦修正-行動力-指揮順位、以下同じ)と次点の丹波長秀(3-2-4★)を投入する。兵力は24ステップ(2万4千)。浅井・朝倉軍の24ステップと兵力は互角だが、指揮能力で勝っているので、攻勢は可能だ。
次に石山本願寺の一向宗と対峙するのは、羽柴秀吉(3-1-4★)麾下の10ステップ(1万)と稲葉良通(3-1-4★)麾下の別働隊2ステップである。石山一向宗は24ステップの大兵力なので織田方からの攻勢は難しいが、北陸戦線に投入した丹波長秀を適宜スイングさせることで対応可能と考える。
次に伊勢湾戦線。ここには柴田勝家(3-2-4★)麾下の12ステップ、織田信長(3-1-4★★)直率の6ステップ、そして別動隊の滝川一益(3-1-4★)麾下の別動隊2ステップを投入する。対する伊勢長島の一向宗は24ステップ。兵力的には織田方がやや不利だが、指揮能力で織田方が勝っている。
武田本隊に対しては徳川家康(3-3-4★★)麾下の16ステップを投入する。しかし武田本隊は36ステップの大兵力を誇り、徳川家康だけでは対抗するのが難しい。従って織田信長本隊から適宜増援を派遣する必要があるだろう。

サイは投げられた。歴史の歯車が今、音を立てて動き出す。

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1Turn(10月第1週)

武田信玄武田信玄(3-3-4★★)が麾下の兵力を率いて躑躅ヶ崎を発して駿河に進出。遠江との国境で国境突破の機会を伺う。同じ頃、織田軍団は畿内各地で攻勢に出る。まず北近江で明智光秀、丹波長秀による浅井・朝倉軍への攻勢は、しかし決定的な戦果は挙げられず、やや手詰まりの感あり。そのため丹波長秀は北近江戦線より南下して羽柴秀吉が担当する石山戦線に向かう。
その羽柴秀吉。京に向けて前進してきた一向宗徒率いる下間頼廉(2-0-2★)を大和・山城国境付近で迎え撃ち、これに打撃を与えるも、決定的な戦果を挙げるには至らず。また石山本願寺の別動隊は堺を制圧した。
最後に伊勢戦線。柴田勝家が一向宗を率いる願証寺証恵(2-0-2★)を強襲。平地での戦いであるため柴田勢は一向宗徒をなで斬りにし、11ステップを撃破するという大戦果を挙げた。願証寺証恵は僅かな兵力を率いて長島城に撤退するも、柴田勝家の追撃は急である。

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2Turn(10月第2週)

石川數正武田信玄が遠江に侵攻した。徳川家康は武田との決戦を回避。石川数正(3-2-3★)を浜松城の守りに残し、残りは岡崎まで撤退していった。
京都周辺では、大きな動きはなかったが、武田軍の遠江侵攻に対応すべく、羽柴秀吉麾下の軍団を伊賀経由で伊勢方面に向かわせた。これにより京都周辺に残る織田軍は、小規模な機動兵力を除くと丹波長秀麾下の軍団のみとなった。
伊勢戦線では柴田勝家の猛攻が続いている。伊勢長島城付近で願証寺証恵麾下の一向宗を痛打。これに大損害を与えて事実上戦闘不能とした。伊勢長島の一揆勢はこれにより主要野戦兵力の約半数が戦闘不能となった。

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3Turn(10月第3週)

浅井長政織田方にとって最良のイベントが発生した。「和議交渉」。畿内における反織田勢力の一部が織田方と和議が成立する可能性がある。一向宗は和議の対象外なので、現時点で和議の可能性があるのは、浅井又は朝倉である。結果は「浅井との和議」成立であった。小谷城を守る浅井勢はマップから取り除かれる。
まずいのは琵琶湖西岸を南下中の朝倉勢である。朝倉義景(4-0-3★★)麾下の朝倉勢に対し、坂本方面から丹波長秀、琵琶湖北岸を迂回して朝倉勢の背後から明智光秀が迫る。挟撃を受けて退路遮断の危機に陥る朝倉勢は、何とか重囲を突破して木ノ本付近にまで後退した。

伊勢方面では、柴田勝家が一向宗を長島城から追い出し、伊勢街道を南下、追撃する。願証寺証恵は柴田勢を追撃を受けて山中に逃げ込んだが、最早その運命は風前の灯である。
畿内情勢の急転を受けて武田信玄は進撃を開始。浜松城の方位を山県昌景(7-2-4★)に任せ、信玄自身は尾張に進入し、井田城を囲んだ。


写真06
写真07



つづく

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