Game Journal誌の傑作ゲーム「信長最大の危機」(以下、本作)をソロプレイしてみた。このゲームは、1570年(元亀元年)の金ヶ崎からの撤退戦から始まる織田信長による平定戦を1Turn=半年、1ユニット=1500~2000名、ポイントトウポイントシステムで再現する。
今回はVASSALを使ったソロプレイにチャレンジしてみた。今回上級ゲームでプレイしたが、選択ルールは採用しなかった。
前回までの展開は-->こちら
次に動いたのは「毛利」。鳥取を発し、2万の大軍を率いた吉川元春が但馬国の出石城下に出現した。出石には、先に同地を制圧していた明智光秀が、やはり約2万の兵力を率いて布陣していた。ほぼ互角の両者が出石城下で激突する。
序盤で優勢を得た吉川勢が明智勢の一部を撃破すると、明智勢は無理をせず撤退。一部は出石城に籠り、光秀の率いる主力は黒井城まで後退した。
石山本願寺を囲む織田勢は遂に7万以上の大兵力になっていた。しかし本願寺勢や三好の残党が大坂湾の海路を利用して増援部隊を送り込んでいるので、石山本願寺の兵力もほぼ元通りに戻っていた。そして大坂湾の制海権は村上水軍がガッチリと押さえている。それでも織田は大軍は石山本願寺を攻めたが、これを落とすには至らなかった。
しかし信長公は諦めない。「浅井・朝倉」を引いた後、再び「織田信長」チットを引いたのである。度重なる包囲戦によって石山本願寺を守る守備兵力は半数程度まで撃ち減らされていた。対する織田勢は守備隊の倍以上の死傷者を出してはいたが、後方から無限の補給能力を生かして総兵力は全く減少する気配を見せない。丹波戦線から急遽はせ参じた明智光秀麾下の約1万5千も攻城戦に加わり、総兵力は約7万。守備隊約6千の実に10倍以上である。さすがにこれだけの兵力差があると、堅固を誇った石山本願寺も落城せざるを得ない。籠城していた一向宗徒は悉くなで斬りにされ、遂に石山本願寺は織田方の手中に落ちた。
この戦いの後、織田陣営と本願寺陣営の間で和睦協定が結ばれた。
いきなり旗を上げした別所・波多野氏は三木城から南下し、加古川まで南下して小早川隆景の背後を遮断する。そして正面からは明智光秀率いる約1万6千が花隈に進出する。本来ならば、花隈の前面にある野田・福島の陣で反織田陣営の三好勢が布陣している筈であったが、事前の調略によって三好の守備隊は織田側に降りていた。従って石山本願寺に布陣していた明智光秀が抵抗なしに花隈に進出出来た訳である。
明智光秀と小早川隆景はほぼ同兵力の激突であったが、連絡線を断たれた小早川勢に元から勝機はなかった。明智勢の一方的な攻撃によって小早川勢は壊滅。小早川隆景もあえなく討死を遂げてしまう。
琵琶湖西岸では、柴田勝家麾下の約1万6千が比叡山延暦寺を包囲して攻め立てた。延暦寺には僧兵約4千が篭って抵抗を続けており、容易に陥落する気配はない。
西方では明智光秀を総大将とする織田軍が姫路を抜けて備前天神山まで地歩を進めていた。宇喜多秀家の本拠地岡山はもう目前である。
が、家康はここで「待ち伏せ」を仕掛けてきた。地面に伏せていた兵がいきなり上杉勢の後方を遮断すると、上杉勢に忽ち動揺が走る。その期を逃さず反撃を行った徳川勢の前に、上杉勢は再び大敗を喫した。上杉景勝は辛うじて落ち延びていく。
現時点での情勢は、浅井、武田が壊滅、本願寺とは和睦が成立。対毛利戦も優勢という状況だ。史実では壊滅していた朝倉が未だ健在で、対毛利戦も史実ほど順調ではない。とはいえ、史実の信長公は第25Turnに明智光秀の裏切りによって討死しているので、史実よりは上手くやっているといえるだろう。
このゲームをプレイするのは6年ぶりだが、やはり面白い。 前回はVASSAL対戦 、今回はソロプレイと、プレイスタイルは違うが、それぞれ異なった楽しさがあった。 対戦の場合は敵の出方が全くわからないというドキドキ感と意外な展開に対する驚きがある。ソロプレイの場合もチット引きや行軍ダイスによる思わぬ展開があり、対人戦とは別の意味でのドキドキ感があって楽しい。また勝敗が関係ないので、一種の大河ドラマを見るような臨場感もまた良し。
今回のプレイでは織田方が一方的に優勢なようにも見えるが、筆者自身がかなり織田側に思い入れしてプレイしたためもあろう。だから本作が織田方有利という訳では決してなく、特に序盤に手を間違えると瞬時に崩壊するのが織田側の難しい所だ。京都を死守する必要があるのは勿論だが、京と岐阜との間の連絡線も保持する必要があり、脆弱な側面を守る困難さが織田側の楽しい所であり、苦しい所でもある。
さてさて、次はどんなプレイスタイルで楽しみましょうか・・・。
今回はVASSALを使ったソロプレイにチャレンジしてみた。今回上級ゲームでプレイしたが、選択ルールは採用しなかった。
前回までの展開は-->こちら
22Turn(天正八年)
半年間の空白期間が空いて、北陸戦線が動いた。いつの間にか当主が上杉謙信から上杉景勝に代わっていたが、その上杉勢が2万以上の大軍を率いて木ノ本峠を越えて北近江に姿を現した。小谷城下を抜けた上杉勢はそのまま前進して再び横山城を囲んだ。次に動いたのは「毛利」。鳥取を発し、2万の大軍を率いた吉川元春が但馬国の出石城下に出現した。出石には、先に同地を制圧していた明智光秀が、やはり約2万の兵力を率いて布陣していた。ほぼ互角の両者が出石城下で激突する。
序盤で優勢を得た吉川勢が明智勢の一部を撃破すると、明智勢は無理をせず撤退。一部は出石城に籠り、光秀の率いる主力は黒井城まで後退した。
石山本願寺を囲む織田勢は遂に7万以上の大兵力になっていた。しかし本願寺勢や三好の残党が大坂湾の海路を利用して増援部隊を送り込んでいるので、石山本願寺の兵力もほぼ元通りに戻っていた。そして大坂湾の制海権は村上水軍がガッチリと押さえている。それでも織田は大軍は石山本願寺を攻めたが、これを落とすには至らなかった。
しかし信長公は諦めない。「浅井・朝倉」を引いた後、再び「織田信長」チットを引いたのである。度重なる包囲戦によって石山本願寺を守る守備兵力は半数程度まで撃ち減らされていた。対する織田勢は守備隊の倍以上の死傷者を出してはいたが、後方から無限の補給能力を生かして総兵力は全く減少する気配を見せない。丹波戦線から急遽はせ参じた明智光秀麾下の約1万5千も攻城戦に加わり、総兵力は約7万。守備隊約6千の実に10倍以上である。さすがにこれだけの兵力差があると、堅固を誇った石山本願寺も落城せざるを得ない。籠城していた一向宗徒は悉くなで斬りにされ、遂に石山本願寺は織田方の手中に落ちた。
この戦いの後、織田陣営と本願寺陣営の間で和睦協定が結ばれた。
23Turn(天正九年)
最大の脅威である本願寺勢との和睦を成し遂げた信長公は、休む間もなく次の行動に打って出る、花隈に布陣する毛利の一翼である小早川隆景を包囲殲滅する作戦だ。播磨の大名である別所・波多野氏に使者を送り、織田側への内応の約束を取り付けていた。いきなり旗を上げした別所・波多野氏は三木城から南下し、加古川まで南下して小早川隆景の背後を遮断する。そして正面からは明智光秀率いる約1万6千が花隈に進出する。本来ならば、花隈の前面にある野田・福島の陣で反織田陣営の三好勢が布陣している筈であったが、事前の調略によって三好の守備隊は織田側に降りていた。従って石山本願寺に布陣していた明智光秀が抵抗なしに花隈に進出出来た訳である。
明智光秀と小早川隆景はほぼ同兵力の激突であったが、連絡線を断たれた小早川勢に元から勝機はなかった。明智勢の一方的な攻撃によって小早川勢は壊滅。小早川隆景もあえなく討死を遂げてしまう。
24Turn(天正九年)
信長公は大坂湾に鉄甲船を浮かべた。これにより大坂湾から播磨灘にかけての制海権確保に向けた信長公の策である。村上水軍が大坂湾に進出し、鉄甲船と戦う。しかしさすがに鉄甲船は強く、損害を出した村上水軍は後退するしかなかった。25Turn(天正十年)
信長公は琵琶湖方面で反攻に転じた。琵琶湖東岸地区では、徳川家康を総大将にする織田・徳川連合軍約3万が、横山城を囲む上杉景勝約2万に戦闘を仕掛けていく。兵力に勝る織田・徳川連合軍と精強を誇る上杉軍の戦いは精算を極めたが、最終的には織田・徳川連合軍が勝利し、戦力を失った上杉勢は越後へ向けて落ちていった。琵琶湖西岸では、柴田勝家麾下の約1万6千が比叡山延暦寺を包囲して攻め立てた。延暦寺には僧兵約4千が篭って抵抗を続けており、容易に陥落する気配はない。
26Turn(天正十年)
織田方の電撃侵攻が行われた。まず近江戦線では、徳川家康、丹波長秀の連合軍約3万が浅井の本拠地小谷城を急襲し、これを落城せしめた。これにより後方連絡線を断たれた浅井長政は、琵琶湖西岸で柴田勝家の強襲攻撃を受け、退路を断たれて壊滅、討死を遂げる。さらに織田・徳川連合軍の進攻は留まる所を知らず、若狭の金ヶ崎に進出し、同地の朝倉軍守備隊を壊滅させていた。また比叡山延暦寺もこのTurnに落城している。西方では明智光秀を総大将とする織田軍が姫路を抜けて備前天神山まで地歩を進めていた。宇喜多秀家の本拠地岡山はもう目前である。
29Turn(天正十二年)
丹波戦線に信長公ご自身が現れた。約3万の大軍を率いて出石に布陣する吉川広家約1万6千を攻撃する。あまりの兵力差に流石の吉川広家も退却を決意。総兵力の約半数を失いつつも、なんとか日本海沿岸へ逃げ延びた。30Turn(天正十二年)
2年前に横山城下で織田・徳川連合軍に大敗を喫した上杉景勝が、再び2万の兵を動員して若狭金ヶ崎に姿を現したのである。同地には徳川家康を総大将とする織田・徳川連合軍約2万が布陣していた。ほぼ同兵力の対決。今度こそ雪辱を期して景勝は敵陣に総攻撃を加える。が、家康はここで「待ち伏せ」を仕掛けてきた。地面に伏せていた兵がいきなり上杉勢の後方を遮断すると、上杉勢に忽ち動揺が走る。その期を逃さず反撃を行った徳川勢の前に、上杉勢は再び大敗を喫した。上杉景勝は辛うじて落ち延びていく。
感想
30Turnをプレイした時点で一旦終了としたい。現時点での情勢は、浅井、武田が壊滅、本願寺とは和睦が成立。対毛利戦も優勢という状況だ。史実では壊滅していた朝倉が未だ健在で、対毛利戦も史実ほど順調ではない。とはいえ、史実の信長公は第25Turnに明智光秀の裏切りによって討死しているので、史実よりは上手くやっているといえるだろう。
このゲームをプレイするのは6年ぶりだが、やはり面白い。 前回はVASSAL対戦 、今回はソロプレイと、プレイスタイルは違うが、それぞれ異なった楽しさがあった。 対戦の場合は敵の出方が全くわからないというドキドキ感と意外な展開に対する驚きがある。ソロプレイの場合もチット引きや行軍ダイスによる思わぬ展開があり、対人戦とは別の意味でのドキドキ感があって楽しい。また勝敗が関係ないので、一種の大河ドラマを見るような臨場感もまた良し。
今回のプレイでは織田方が一方的に優勢なようにも見えるが、筆者自身がかなり織田側に思い入れしてプレイしたためもあろう。だから本作が織田方有利という訳では決してなく、特に序盤に手を間違えると瞬時に崩壊するのが織田側の難しい所だ。京都を死守する必要があるのは勿論だが、京と岐阜との間の連絡線も保持する必要があり、脆弱な側面を守る困難さが織田側の楽しい所であり、苦しい所でもある。
さてさて、次はどんなプレイスタイルで楽しみましょうか・・・。