もりつちの徒然なるままに

ウォーゲームの話や旅の話、山登り、B級グルメなどの記事を書いていきます。 自作のウォーゲームも取り扱っています。

タグ:信長最大の危機

Game Journal誌の傑作ゲーム「信長最大の危機」(以下、本作)をソロプレイしてみた。このゲームは、1570年(元亀元年)の金ヶ崎からの撤退戦から始まる織田信長による平定戦を1Turn=半年、1ユニット=1500~2000名、ポイントトウポイントシステムで再現する。
今回はVASSALを使ったソロプレイにチャレンジしてみた。今回上級ゲームでプレイしたが、選択ルールは採用しなかった。

前回までの展開は-->こちら

22Turn(天正八年)

上杉景勝半年間の空白期間が空いて、北陸戦線が動いた。いつの間にか当主が上杉謙信から上杉景勝に代わっていたが、その上杉勢が2万以上の大軍を率いて木ノ本峠を越えて北近江に姿を現した。小谷城下を抜けた上杉勢はそのまま前進して再び横山城を囲んだ。

Turn22a


次に動いたのは「毛利」。鳥取を発し、2万の大軍を率いた吉川元春が但馬国の出石城下に出現した。出石には、先に同地を制圧していた明智光秀が、やはり約2万の兵力を率いて布陣していた。ほぼ互角の両者が出石城下で激突する。
序盤で優勢を得た吉川勢が明智勢の一部を撃破すると、明智勢は無理をせず撤退。一部は出石城に籠り、光秀の率いる主力は黒井城まで後退した。

Turn22b


本願寺石山本願寺を囲む織田勢は遂に7万以上の大兵力になっていた。しかし本願寺勢や三好の残党が大坂湾の海路を利用して増援部隊を送り込んでいるので、石山本願寺の兵力もほぼ元通りに戻っていた。そして大坂湾の制海権は村上水軍がガッチリと押さえている。それでも織田は大軍は石山本願寺を攻めたが、これを落とすには至らなかった。

Turn22c


織田信長しかし信長公は諦めない。「浅井・朝倉」を引いた後、再び「織田信長」チットを引いたのである。度重なる包囲戦によって石山本願寺を守る守備兵力は半数程度まで撃ち減らされていた。対する織田勢は守備隊の倍以上の死傷者を出してはいたが、後方から無限の補給能力を生かして総兵力は全く減少する気配を見せない。丹波戦線から急遽はせ参じた明智光秀麾下の約1万5千も攻城戦に加わり、総兵力は約7万。守備隊約6千の実に10倍以上である。さすがにこれだけの兵力差があると、堅固を誇った石山本願寺も落城せざるを得ない。籠城していた一向宗徒は悉くなで斬りにされ、遂に石山本願寺は織田方の手中に落ちた。

この戦いの後、織田陣営と本願寺陣営の間で和睦協定が結ばれた。

Turn22d


23Turn(天正九年)

明智光秀最大の脅威である本願寺勢との和睦を成し遂げた信長公は、休む間もなく次の行動に打って出る、花隈に布陣する毛利の一翼である小早川隆景を包囲殲滅する作戦だ。播磨の大名である別所・波多野氏に使者を送り、織田側への内応の約束を取り付けていた。
いきなり旗を上げした別所・波多野氏は三木城から南下し、加古川まで南下して小早川隆景の背後を遮断する。そして正面からは明智光秀率いる約1万6千が花隈に進出する。本来ならば、花隈の前面にある野田・福島の陣で反織田陣営の三好勢が布陣している筈であったが、事前の調略によって三好の守備隊は織田側に降りていた。従って石山本願寺に布陣していた明智光秀が抵抗なしに花隈に進出出来た訳である。

Turn23a


明智光秀と小早川隆景はほぼ同兵力の激突であったが、連絡線を断たれた小早川勢に元から勝機はなかった。明智勢の一方的な攻撃によって小早川勢は壊滅。小早川隆景もあえなく討死を遂げてしまう。

24Turn(天正九年)

鉄甲船信長公は大坂湾に鉄甲船を浮かべた。これにより大坂湾から播磨灘にかけての制海権確保に向けた信長公の策である。村上水軍が大坂湾に進出し、鉄甲船と戦う。しかしさすがに鉄甲船は強く、損害を出した村上水軍は後退するしかなかった。

Turn24a


25Turn(天正十年)

信長公は琵琶湖方面で反攻に転じた。琵琶湖東岸地区では、徳川家康を総大将にする織田・徳川連合軍約3万が、横山城を囲む上杉景勝約2万に戦闘を仕掛けていく。兵力に勝る織田・徳川連合軍と精強を誇る上杉軍の戦いは精算を極めたが、最終的には織田・徳川連合軍が勝利し、戦力を失った上杉勢は越後へ向けて落ちていった。
琵琶湖西岸では、柴田勝家麾下の約1万6千が比叡山延暦寺を包囲して攻め立てた。延暦寺には僧兵約4千が篭って抵抗を続けており、容易に陥落する気配はない。

Turn25a


26Turn(天正十年)

延暦寺織田方の電撃侵攻が行われた。まず近江戦線では、徳川家康、丹波長秀の連合軍約3万が浅井の本拠地小谷城を急襲し、これを落城せしめた。これにより後方連絡線を断たれた浅井長政は、琵琶湖西岸で柴田勝家の強襲攻撃を受け、退路を断たれて壊滅、討死を遂げる。さらに織田・徳川連合軍の進攻は留まる所を知らず、若狭の金ヶ崎に進出し、同地の朝倉軍守備隊を壊滅させていた。また比叡山延暦寺もこのTurnに落城している。

Turn26a


西方では明智光秀を総大将とする織田軍が姫路を抜けて備前天神山まで地歩を進めていた。宇喜多秀家の本拠地岡山はもう目前である。

Turn26b


29Turn(天正十二年)

丹波戦線に信長公ご自身が現れた。約3万の大軍を率いて出石に布陣する吉川広家約1万6千を攻撃する。あまりの兵力差に流石の吉川広家も退却を決意。総兵力の約半数を失いつつも、なんとか日本海沿岸へ逃げ延びた。

30Turn(天正十二年)

徳川家康2年前に横山城下で織田・徳川連合軍に大敗を喫した上杉景勝が、再び2万の兵を動員して若狭金ヶ崎に姿を現したのである。同地には徳川家康を総大将とする織田・徳川連合軍約2万が布陣していた。ほぼ同兵力の対決。今度こそ雪辱を期して景勝は敵陣に総攻撃を加える。
が、家康はここで「待ち伏せ」を仕掛けてきた。地面に伏せていた兵がいきなり上杉勢の後方を遮断すると、上杉勢に忽ち動揺が走る。その期を逃さず反撃を行った徳川勢の前に、上杉勢は再び大敗を喫した。上杉景勝は辛うじて落ち延びていく。

Turn30a


感想

30Turnをプレイした時点で一旦終了としたい。
現時点での情勢は、浅井、武田が壊滅、本願寺とは和睦が成立。対毛利戦も優勢という状況だ。史実では壊滅していた朝倉が未だ健在で、対毛利戦も史実ほど順調ではない。とはいえ、史実の信長公は第25Turnに明智光秀の裏切りによって討死しているので、史実よりは上手くやっているといえるだろう。

このゲームをプレイするのは6年ぶりだが、やはり面白い。 前回はVASSAL対戦 、今回はソロプレイと、プレイスタイルは違うが、それぞれ異なった楽しさがあった。 対戦の場合は敵の出方が全くわからないというドキドキ感と意外な展開に対する驚きがある。ソロプレイの場合もチット引きや行軍ダイスによる思わぬ展開があり、対人戦とは別の意味でのドキドキ感があって楽しい。また勝敗が関係ないので、一種の大河ドラマを見るような臨場感もまた良し。

今回のプレイでは織田方が一方的に優勢なようにも見えるが、筆者自身がかなり織田側に思い入れしてプレイしたためもあろう。だから本作が織田方有利という訳では決してなく、特に序盤に手を間違えると瞬時に崩壊するのが織田側の難しい所だ。京都を死守する必要があるのは勿論だが、京と岐阜との間の連絡線も保持する必要があり、脆弱な側面を守る困難さが織田側の楽しい所であり、苦しい所でもある。

さてさて、次はどんなプレイスタイルで楽しみましょうか・・・。

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Game Journal誌の傑作ゲーム「信長最大の危機」(以下、本作)をソロプレイしてみた。このゲームは、1570年(元亀元年)の金ヶ崎からの撤退戦から始まる織田信長による平定戦を1Turn=半年、1ユニット=1500~2000名、ポイントトウポイントシステムで再現する。
今回はVASSALを使ったソロプレイにチャレンジしてみた。今回上級ゲームでプレイしたが、選択ルールは採用しなかった。

前回までの展開は-->こちら

10Turn(天正二年)

徳川家康織田、徳川連合軍が甲斐へ進攻。甲府を攻める。甲府を守る山県昌景は躑躅ヶ崎館に籠って抵抗するが、兵力で圧倒する織田、徳川連合軍の攻撃を受けて壊滅した。その結果、武田家は滅亡。信長公は甲斐、信濃の広大な地域を手中に収めた。

Turn10a


11Turn(天正三年)

雑賀、本願寺の連合軍は筒井順慶の大和郡山城に総攻撃を行った。圧倒的な兵力を持つ本願寺勢に対し、筒井勢は成す術もなかった。大和郡山城は落城。筒井順慶は壮烈な最期を遂げた。

13Turn(天正四年)

毛利輝元武田を降ろした信長公にとって、新たな強敵が西方から出現しつつあった。毛利輝元。山陽山陰一帯を制する西国の雄である。その頃、織田側の西方作戦は、羽柴秀吉、明智光秀を中心として丹波地方の平定に取り掛かっていた。彼らは黒井城を守る小豪族(赤井氏)の抵抗を受けて苦戦中である。

一方畿内では大和郡山を手中に収めた本願寺勢が遂に山城国に侵入。細川藤孝が守る勝竜寺城を囲んだ。ここが落とされると、一揆勢が京に雪崩れ込んでくる可能性もあった。信長公としては、勝竜寺を見捨てる訳にはいかない。

信長公は自ら約2万5千の兵を率いて勝竜寺に攻め込み、雑賀、本願寺勢に対して野外戦を挑む。兵力的には織田側が5割方優越していたが。戦いは凄惨なモノとなった。雑賀孫一の野戦指揮能力は傑出しており、兵力的な優位にも関わらず信長公は苦戦を余儀なくされた。最終的には信長公は2万以上の兵を失って京に後退。雑賀、本願寺勢も2/3近い戦力を失っていたが、なおも勝竜寺を包囲していた。

Turn13b


浅井、朝倉も攻勢を仕掛けてきた。浅井の旧領横山城を浅井、朝倉連合軍約1万6千が包囲したのである。横山城の守備隊は城に籠って増援を待つ。

Turn13c


そして毛利が動く。吉川広家が1万6千の兵を率いて鳥取を進発して山陰道を進む。山陽道には小早川隆景が約2万の兵を率いて東へ進む。山陽道には宇喜多秀家麾下の1万2千も加わっていた。

16Turn(天正五年)

雑賀孫一1年ほど意味不明の停滞があった後(2Turn連続で「終了」チットを最初に引いた)、最初に動いたのは「織田」であった。丹波方面では調略により黒井城を攻略した明智光秀が方面軍総大将に任命された。また近江方面では徳川家康が約1万5千の兵を引き連れて佐和山へ急行。横山城を囲む浅井・朝倉軍と対峙する。

そして京で兵力を回復した信長公は約1万6千率いて京を進発。再び勝竜寺を囲む雑賀・本願寺連合軍に対峙する。勝竜寺の雑賀勢はこれまでの消耗戦で兵力6千まで減少していた。対する織田側は勝竜寺で包囲されている細川勢と合わせて2万近い兵力になっていた。
流石に3倍の兵力相手に勝機はないと見た雑賀勢は、包囲を解いて撤退を開始。しかしそこに大兵力を誇る織田勢が襲い掛かる。前回の「第1次勝竜寺合戦」と打って変わって溌剌とした動きを見せる織田勢は雑賀勢を圧倒。雑賀孫一も激戦の中で遂に討ち取られてしまう。

Turn16a


本願寺勢は再び兵力を集めて、今度は南山科の槙島城を攻めた。しかしここも一撃陥落とは行かず、城を守る織田勢は持ちこたえてる。

続いて「毛利」を引いたので小早川隆景が1万6千の兵を率いて姫路を包囲。一撃で落城させた。

続いて「浅井・朝倉」を引いた。佐和山に徳川家康が布陣したのを見た浅井・朝倉連合軍は、横山城の包囲を解き、小谷城方面へ撤退していった。能力に勝る徳川家康相手の野外戦は不利と判断したのだろう。

最後に動いたのが「上杉」である。既に第15Turnから活動を開始していた上杉勢だったが、ここにきて漸くチットを引く機会に恵まれた。約2万の大兵力で富山城を囲んだ上杉勢は、一撃で富山城を落城させていた。

19Turn(天正七年)

本願寺またもや「終了」チットのイタズラで2Turnほど動きが止まった。その間、僅かに村上水軍が瀬戸内海を経て大阪湾に進出してきたぐらいが動きと言えば動きであった。

「織田」が動く。雑賀勢の脅威を退けた信長公の次なる目標は何か。まずは先に槙島城を包囲した本願寺勢を撃破すべく柴田勝家を「方面軍総大将」に任じて兵約2万で討伐に当たらせた。人海戦術が頼みの一揆勢であったが、正規軍と野戦で正面から戦う力はない(雑賀孫一のような優秀な野戦指揮官が居れば別だが・・・)。忽ち包囲を解いた一揆勢は柴田隊の猛攻を受けて兵力の約半数を失って撤退していく。
また佐和山には丹波長秀率いる2万弱の兵が到着した。いよいよ浅井の本拠、小谷城を総攻撃する構えである。

Turn19a


20Turn(天正七年)

織田信長信長公は丹波長秀の兵約2万を佐和山から摂津へ移動せしめた。そこに信長公の本隊も加わり4万近い兵力が摂津茨木城下に集結した。さらに後方の京には柴田勝家、佐久間信盛麾下の兵2万以上が予備として待機している。機内に集結した野戦兵力は6万以上。この大兵力が一体何を狙っているのだろうか。

Turn20a


信長公の狙いは石山本願寺であった。6万以上という大兵力を率いて難攻不落と言われている石山本願寺に総攻撃を加えたのである。しかしさすがは天下に名にし負う石山本願寺である。信長公の揃えた空前の大兵力による総攻撃をギリギリで凌いだ(あと1Hit足らなかった)。

Turn20b


一方、本願寺に対する毛利の援軍は、小早川隆景麾下の2万弱が加古川を超えて花隈(現在の神戸)まで進出してきた。しかし織田側の大兵力とまともに戦えば壊滅は免れない。花隈よりは先に進まず、この地で様子を伺う。

つづく

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信長最大の危機紹介

YouTubeチャンネル「もりつちのウォーゲーム情報」Game Journal誌別冊「信長最大の危機」 の紹介動画を作成しました。

こんな感じです。



今回は、自作ゲームを離れ、市販ゲームの紹介動画にチャレンジしてみました。次回作は未定ですが、市販ゲームの紹介又は自作ゲームの紹介動画をアップしたいと思います。予定では、2週間後の水曜日20時に公開を予定しています。
今後ともよろしくお願いいたします。

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00表紙

Game Journal誌の傑作ゲーム「信長最大の危機」(以下、本作)をソロプレイしてみた。このゲームは、1570年(元亀元年)の金ヶ崎からの撤退戦から始まる織田信長による平定戦を1Turn=半年、1ユニット=1500~2000名、ポイントトウポイントシステムで再現する。
1996年にGame Journal誌の付録として発表された本作は、21世紀に入って第2版として再販され、さらに米MMP社からは英語版が発売されている。余談だが、本作は2010年に米国でチャールズ・ロバーツ賞を受賞している。
今回は久しぶりに本作の魅力に触れるべく、VASSALを使ったソロプレイにチャレンジしてみた。今回上級ゲームでプレイしたが、選択ルールは採用しなかった。

Turn00a


1Turn(元亀元年)

織田信長本作の序盤はほぼ定石が決まっている。最初の行軍チットが「織田信長」に決まっているので、そのチットを使って金ヶ崎の信長公を馬廻りと共に京に逃がすのだ。行軍判定のダイスが最悪の1であったも信長公だけは逃げ切れる筈。
今回行軍ダイスは織田方にとって最良の6であった。そこで信長公は麾下兵力の約半数である1万6千を率いて金ヶ崎を撤退。返す刀で交通の要域、近江佐和山城を攻める。後日石田三成が城主となった佐和山城は、当時は北近江の浅井が支配していた。浅井の守備兵約4000に対し、約4倍の織田軍は攻めあぐみ、佐和山を落とすには至らず。

しかも、その直後に「終了」チットを引いたので、いきなりTurn終了である。

Turn01a


2Turn(元亀元年)

滝川一益最初に引いたのは「織田信長」チットである。佐和山に対する調略戦を仕掛けた所、2個の守備隊が両方とも織田方に寝返るという珍事が起こった(確率1/9)。織田方にとっては麾下の兵力が増えるだけでなく、強敵浅井長政が弱体化したという点で朗報だった。こうして佐和山は労せずして織田方が支配し、岐阜から京への連絡線が著しく短縮された。

織田側の反撃第二弾は南近江の六角攻めを行う。滝川一益麾下の1個軍団(約1万5千)が六角氏の本拠である南近江箕作城を攻める。しかし六角氏の抵抗も激しく、このTurnに箕作城が落ちることはなかった。

Turn02a


その次に引いたのが「反織田中小」。四国阿波に本拠を持つ三好三人衆が約1万2千の兵を率いて摂津茨木城に攻め込んだ。茨木を守るは荒木村重率いる約4千。数では敵わない荒木勢は、茨木城に籠城の構えである。

Turn02b


3Turn(元亀二年)

柴田勝家最初に引いたのは「浅井・朝倉」。朝倉義景が約1万5千を率いて金ヶ崎に現れた。金ヶ崎には織田軍の殿約4千が城に籠っていた。朝倉勢は激しく攻め立てたが、落城には至らず。

続いて「織田信長」を引く。信長公自ら率いる主力部隊1万5千が摂津茨木へ出陣。三好勢と戦う。兵力で勝る織田勢は三好勢を圧倒。三好三人衆と言われた三好氏の重臣達は。この「摂津表の戦い」にて悉く討死した。

伊勢方面では、伊勢長島の一向一揆勢に対して攻勢を仕掛ける。柴田勝家麾下の約8千が長島の輪中を囲んだが、強襲を仕掛けるには兵力不足であったので睨み合いになる。

Turn03a


「反織田中小」を引いた後、最後に引いたのが「本願寺」である。雑賀孫一率いる雑賀勢と本願寺の合同部隊が信貴山城の松永弾正久秀を攻めた。松永弾正は兵力で劣るため信貴山城に籠城。援軍を待つ。

Turn03b


6Turn(元亀三年)

武田信玄2Turnほど大きな動きがなかった後(「終了」チットを引くのが早かった)、遂に武田が動き出した。そしてまさに最初に引いたチットが「武田信玄」である。武田勢は部隊を3つに分けて、主力は武田信玄自ら率いて駿河から徳川領の遠江に侵攻。その兵力は約2万。さらに山県昌景麾下の約4千が伊那路を進み、馬場信春麾下の約4千が木曽路を進む。早くも武田信玄が掛川城を攻撃し、それを陥落させた。

「反織田中小」を引いた後、「織田信長」を引く。まず武田の脅威に直面した徳川勢は、主力の8千を浜松城下に集結させる。しかし2万を誇る武田勢に比べると余りに兵力不足である。
その他には伊勢長島に対する本格攻撃を開始した。しかし長島の一揆勢は激しく抵抗。織田方は大損害を被ってしまう。

次に引いたのが「本願寺」。雑賀と本願寺の連合軍が信貴山城を猛攻。遂にこれを陥落せしめた。信貴山城で最後まで戦った松永久秀は、平蜘蛛の茶釜と共に爆死した。

次に引いたのが「武田」である。武田信玄は麾下の兵力から1万6千の兵を率いて徳川の本拠である浜松城を襲う。兵力に劣る徳川勢は野外戦を避けて浜松城に籠城する。武田勢は城に対して猛攻を仕掛けるが、徳川側の抵抗は激しく、武田方も攻めあぐねた。

Turn06a


最後に引いたのが「織田」である。浜松城では徳川勢が奮戦しているが、このまま放置すれば兵力に勝る武田勢がやがて浜松城を攻略するのは火を見るより明らか。速やかに援軍を浜松城下に送り込まなければならない。信長公麾下の約1.5万は京を発って伊勢亀山まで進出。東海道を東に向かう構えを見せる。
その他、滝川一益は遂に箕作城を攻略し、六角氏を滅亡させた。実に2年以上に及ぶ攻城戦が漸く終わりを迎えたのである。
伊勢長島では、柴田勝家麾下の織田軍は、丹波長秀麾下8千の増援を得て長島城に攻めかかる。長島を守る一揆勢は激しく戦い、織田側はまたもや多大な損害を被ったが、一揆勢も少しずつ兵力をすり減らしていく。

Turn06b


7Turn(天正元年)

徳川家康最初に引いたのが「武田」。武田勢は増援を得て再び1万6千の兵力で浜松城を攻める。しかし浜松城の守りは鉄壁であり、武田勢は数千の兵を失った。

次に引いたのが「織田」である。浜松攻めで弱体化した武田信玄に対する反撃のチャンスと見た織田側は、佐久間信盛麾下の1万2千を浜松に送り込んだ。さらに徳川の増援部隊6千も浜松にむかう。浜松で籠城していた徳川勢の生き残り約6千も増援部隊を得て野外決戦に出る。織田・徳川連合軍計2万4千。対する武田勢は先の浜松攻めで稼働兵力が約1万まで減少していた。さらに徳川家康は信長公より「方面軍大将」の地位を得て、能力的に武田信玄と互角になっていた。
武田信玄は形成悪しと見て撤退を宣言。しかし圧倒的な織田・徳川連合軍の追撃を受けて武田勢は壊滅。信玄公も激戦の中で遂に討死してしまう。

Turn07a


いきなり駿河戦線が壊滅した武田勢は、いきなり滅亡の危機を迎えていた。慌てて山県昌景が甲府に帰還し、本城の守りを固める。

9Turn(天正二年)

足利義昭北陸戦線が動いた。朝倉勢が金ヶ崎城を猛攻。遂にこれを陥落せしめた。これで浅井、朝倉間の連絡線が回復した。
京では武田出陣の報に驚喜した足利義昭が兵を率いて挙兵。したものの瞬く間に信長に制圧され、足利義昭は京を追放された。ここに室町幕府は終焉を迎えたのである。

Turn09a


伊勢方面では柴田勝家が遂に長島の一向一揆を完全制圧した。また対武田戦線では徳川家康が駿河へ進撃。掛川から駿府を通って久能山までを支配下に置いた。これで駿府一帯は織田・徳川勢の支配する所となったのである。

畿内では本願寺勢が再び策動を開始していた。信貴山を制圧した雑賀孫一麾下の雑賀勢と本願寺勢の連合軍が筒井順慶の守る大和郡山城を急襲したのである。筒井順慶は城に籠って抵抗を続けている。

つづく

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