もりつちの徒然なるままに

ウォーゲームの話や旅の話、山登り、B級グルメなどの記事を書いていきます。 自作のウォーゲームも取り扱っています。

タグ:百名城

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高岡に行く機会があり、高岡城趾に立ち寄ってみました。
前回、高岡城に行ったのは 2017年のことなので、丁度4年前になる。ちなみに月日もすごく近似していたので、この時期は北陸に行くのが自分なりの「ルーティーン」になっているのかと少し驚き。
城跡に入ると、射水神社というものがあり、そこでは丁度梅が咲いていました。濃いめのピンク色と白に染まった梅の木は美しかったです。

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城跡自体は公園になっていて、地元の人たちが思い思いに寛いでいました。また城跡公園の一角には前田利長公の馬上像がありました。

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城跡から少し離れた所に高岡大仏があり、大仏様が鎮座しておりました。奈良の大仏ほどの豪華さはありませんが、石で出来た大仏様は見応えがあります。

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ちなみに高岡駅には3セクの富山あいの風鉄道(旧JR北陸本線)とJR氷見線、JR城端線の3つの路線が乗り入れています。氷見線、城端線は高岡始発の盲腸線ですが、そこでキハ40系の旧式ディーゼルカーを拝めたのはラッキーでした。

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豊後竹田の岡城址といえば、滝廉太郎の「荒城の月」で有名なお城です。ここには 過去に一度行ったことがあったのですが 、今回、5年ぶりに行ってみました。
今回は真冬の時期に行ったので、人通りも少なく、城内は閑散としていました。そのため「荒城の月」という感じを強く味わうことができました。

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この岡城。何度来てもその圧倒的な迫力に驚かされます。城の全周を高い石垣が囲んでいて、その高さは100m近くはありそうな雰囲気。完全に高石垣が城を囲んでいるので、物理的な手段で落城させるのは殆ど不可能かと思います。実際、島津勢が肥前に攻め込んできた時、岡城を囲んだそうですが、落城させることはできませんでした。

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本丸近くには滝廉太郎の銅像がありました。

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奥州の北畠氏が伊勢地方に進出し、最初に拠点を築いたのが田丸城である。
以前に紹介した多気北畠氏城館 とほぼ同時期に城郭が築かれ、一時は奥州北畠氏による伊勢支配の根拠地ともなったという。

松阪市から東へ進み、玉城町という所に入ると、小高い丘が見えてくる、何やら文字が書いてあって怪しい感じだが、これこそが田丸城址になる。
JR参宮線の田丸駅近くにある玉城町町役場に車を停めると、目の前に田丸城の趾がある。今は敷地の半分近くに中学校(玉城中学校)が位置しているため、田丸城に登るためには、中学校を迂回していく必要がある。

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ぐるりと中学校を迂回すると、目の前に田丸城の天守閣跡がある。当時のモノと同じかどうかは知らないが、石垣が結構しっかりと残されている。

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一番高い所が天守趾になる。ハリボテのような天守閣があるが、これは恐らくライトアップするためだろう。天守趾は高台になっていて、伊勢平野一帯を見下ろすことができる。

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元来た道を降りていくと、C58型蒸気機関車が保存されている。かつて国鉄参宮線を走っていた機関車のうちの1台であろう。参宮線はその名の通り伊勢神宮への参詣路線で、その歴史は結構古い。今では一地方線に過ぎないが、戦前には皇室の伊勢神宮参詣などでも使う路線になるので、それなりに重視されていたのだろう。

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北畠氏とは、南北朝の騒乱の際、宮方について武家方を苦しめた北畠親房、顕家親子らの一族である。他には織田信長の次男北畠信雄も北畠氏になる。
多気北畠氏城館とは、北畠親房の次男、三男(北畠顕家の弟)が伊勢に拠点を築いた際、城郭として整備されたのが始まりという。

駐車場に車を停めると、目の間には北畠神社なるもがあり、そこがかつて多気北畠氏城館の中心があった場所になる。社務所で300円を支払うと、国の名勝に指定されている庭園に入ることができる。

城郭自体は北畠神社の裏手にある霧山に築かれた山城になっていて、土塁などが残されている他、北畠神社の近くには当時の石垣が残されているとのことであった。

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奈良県高取町にある高取城は日本最強の山城らしい。そんな噂を聞いて近鉄壺阪山駅を降りたのは、12月も半ば過ぎのとある日曜日早朝であった。駅前の雰囲気は、昔ながらの郊外型の町で、高齢者が多く住んでいるような感じであった。

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駅前の信号を渡ってすぐに右折。「高取城までは5km」という標識がある。ある程度歩くことを覚悟してきたので5kmでビビることはないが、やはり先は長そうだと気を引き締める。
石畳の街並みを歩いていく。昔ながらの武家屋敷といった佇まい。しばらく歩くと、「夢創館」という観光案内所がある。時間的に早かったので、まだ営業はしていない。

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さらに歩くと児童公園があり、その先にやや広めの道路を渡って砂防公園を過ぎると、いよいよ道は山道に入っていく。ここまでの所要時間は約30分。この時点で距離的には約半分をこなしたことになっている。

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高取城への山道は歩きやすい登山道と言った感じ。普通の道よりも斜度はあるが、道幅が広く、障害物も少ないので歩きやすい。ただし標高差は約400mとちょっとした登山程度はある。雰囲気的には 10月末に歩いた金剛山 をスケールダウンした感じだ。

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1時間ほど歩いて二ノ丸跡に到着。このあたりから高取城の縄張りに入っていく。天守閣のような建物類は残っていないものの、石垣はほのそのまま残されており、それが幾重にも連なっている。高取城が極めて堅固な縄張りを持った城郭であることを伺わせる。

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さらに10分程歩くと高取城の核心部につく。所謂本丸だ。ここも石垣が幾重にも巡らされていて、これでもか、これでもか、とばかりに現れてくる。こちらはただ歩いているだけなのに、「おいおい、一体いつまで石垣が出てくるんだよ」と突っ込みたくなる。

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ようやく高取城の最終地点に到着。駅からここまでの所要時間は約1.5時間だ。恐らく壺阪山の最高地点と思われる場所である(一等三角点が設置されていた)。そこから見る大和盆地の美しさと言ったら・・・。何とも言葉が出ない程である。

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帰りは元来た道を通らずに反対側の車道を降りていく。こちらは往路よりもやや距離的には長い。車道は本丸のすぐ下まで来ているが、柵が置いてあって中には入れない。自動車用の駐車場は遥か下方の壺坂寺の付近にあり、そこからだと往復2時間弱はかかりそうである。

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壺坂寺を横目に見ながらハイキングコースを降りていき、やがて朝と追った街並みを過ぎると近鉄壺坂山駅に到着だ。所要時間3時間10分。軽い登山ともいうべき高取城散策であった。

感想だが、高取城の堅固さが良く分かった。通常の平城と比べても縄張りは遥かに堅固であり、しかも山城だから敵側から城の縄張りはなかなかわからない。そういった意味で「日本一の山城」というのは確かに頷ける話だと思う。

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今回は初冬の訪問となったが、季節を問わず楽しめそうだ。紅葉の方は盛を過ぎて枯葉が地面に敷き詰めらえている状況であったが、それなりに美しかった。もし秋の盛りに来たら、もっと素晴らしい景観だっただろうと思う。
高取城の堅固さは理解できたのだが、何故この場所にこのような堅固な城郭が必要だったのかは、少し疑問を感じた。南北朝時代であれば、吉野へ至る進入路を管制するという意味で重要だったとは思うが、戦国時代だとどうなんだろうか。奈良と和歌山の交通路を扼する、ということだろうか・・・。

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